『古事記』の前知識として、日本最古の書で現在目に触れることが出来る書籍としては、室町時代の足利義満が将軍を務めていた頃、愛知県名古屋市にある真福寺真言の僧侶、賢瑜によって写本された「真福寺本古事記」が国宝として存在しています。七一二年に太安万侶が元明天皇に提出した『古事記』は残っていません。元明天皇に提出された『古事記』は、その当時権力があった藤原不比等の手に。そして、藤原鎌足の甥、中臣意美麻呂に手渡され、意美麻呂の子孫が朝廷の祭祀を司る官に就くようになり、伊勢神宮などの神祇官を務めるようになった。その末裔である大中臣氏と卜部氏が『古事記』を管理することになった。「真福寺本古事記」は、伊勢大中臣系の古事記の写本だそうです。
 『古事記』には、『日本書紀』にはない序文が最初に出てくる。その文体は『日本書紀』が漢文で書かれているのに対して、その当時の大和言葉を漢字だけで表されていて、音読み・訓読みの漢字の混合で書かれている。その当時には、平仮名はなく、万葉仮名の時代ですから。文章全体を見た感じでは、太安万侶が元明天皇に提出の際の趣意書のようです。内容自体は六つに分かれています。
一、臣安萬侶言。夫混元既凝。氣象未效。無名無爲。誰知其形。然乾坤初分。參神作造化之首。陰陽斯開。二靈爲群品之祖。所以出入幽顯。日月彰於洗目。浮沈海水。神祇呈於滌身。故太素杳冥。因本教而識孕土產嶋之時。元始綿邈。賴先聖而察生神立人之世。寔知。懸鏡吐珠。而百王相續。喫劔切蛇。以萬神蕃息歟。議安河而平天下。論小濱而清國土。是以番仁岐命。初降于高千嶺。神倭天皇。經歷于秋津嶋。化熊出爪。天劔獲於高倉。生尾遮徑。大烏導於吉野。列儛攘賊。聞歌伏仇。即覺夢而敬神祇。所以稱賢后。望烟而撫黎元。於今傳聖帝。定境開邦。制于近淡海。正姓撰氏。勒于遠飛鳥。雖步驟各異。文質不同。莫不稽古以繩風猷於既頽。照今以補典教於欲絶。
二、曁飛鳥清原大宮。御大八洲天皇御世。濳龍體元。洊雷應期。聞夢歌而想纂業。投夜水而知承基。然天時未臻。蟬蛻於南山。人事共洽。虎步於東國。皇輿忽駕。凌渡山川。六師雷震。三軍電逝。杖矛擧威。猛士烟起。絳旗耀兵。凶徒瓦解。未移浹辰。氣沴自清。乃。放牛息馬。愷悌歸於華夏。卷旌戢戈。儛詠停於都邑。
三、歳次大梁。月踵俠鍾。清原大宮。昇即天位。道軼軒后。德跨周王。握乾符而摠六合。得天統而包八荒。乘二氣之正。齊五行之序。設神理以奬俗。敷英風以弘國。重加。智海浩瀚。潭探上古。心鏡煒煌。明覩先代。
四、於是天皇詔之。朕聞諸家之所齎。帝紀及本辭。既違正實。多加虛僞。當今之時。不改其失。未經幾年。其旨欲滅。斯乃邦家之經緯。王化之鴻基焉。故惟撰錄帝紀。討覈舊辭。削僞定實。欲流後葉。時有舍人。姓稗田名阿禮。年是廿八。爲人聰明。度目誦口。拂耳勒心。即勅語阿禮。令誦習帝皇日繼。及先代舊辭。然運移世異。未行其事矣。
五、伏惟皇帝陛下。得一光宅。通三亭育。御紫宸而德被馬蹄之所極。坐玄扈而化照船頭之所逮。日浮重暉。雲散非烟。連柯并穗之瑞。史不絶書。列烽重譯之貢。府無空月。可謂名高文命。德冠天乙矣。
六、於焉惜舊辭之誤忤。正先紀之謬錯。以和銅四年九月十八日。詔臣安萬侶。撰錄稗田阿禮所誦之勅語舊辭。以獻上者。謹隨詔旨。子細採摭。然上古之時。言意並朴。敷文構句。於字即難。已因訓述者。詞不逮心。全以音連者。事趣更長。是以今。或一句之中。交用音訓。或一事之内。全以訓錄。即。辭理叵見以注明。意况易解更非注。亦於姓日下謂玖沙訶。於名帶字謂多羅斯。如此之類。隨本不改。大抵所記者。自天地開闢始。以訖于小治田御世。故。天御中主神以下。日子波限建鵜草葺不合尊以前。爲上卷。神倭伊波禮毘古天皇以下。品陀御世以前。爲中卷。大雀皇帝以下。小治田大宮以前。爲下卷。并錄三卷。謹以獻上。臣安萬侶。誠惶誠恐。頓首頓首。
和銅五年正月廿八日。正五位上勳五等太朝臣安萬侶謹上。
 簡単に解説していきますと、一の最初に安万侶の挨拶から始まり、『古事記』のあらすじ。二は、天武天皇ついて。三は、天武天皇の偉業。四は、天武天皇から、「稗田阿礼が『帝皇日継』『先代旧辞』を誦読するので書き留めてほしい」という依頼が書かれている。五は、安万侶が元明天皇と面会し、天皇を称える言葉。六は、和銅四年九月十八日に元明天皇から正式に依頼を受け、誦読を漢字にあてる苦労話と推古天皇までの事柄の掲載することを示している。そして、最後に『古事記』を献上した日付と安万侶の位と名前。
 この序を読んでみると「昔から日本人は礼儀正しい」と、現在でも趣意書を書くときは相手に失礼のないように書きますね。それにしても、パット見た感じでは漢文のようにみえますね。『古事記』が編纂した当時、『万葉集』の収集も始まったころ、万葉仮名で書かれていた。「小倉百人一首」が作成されたころには、万葉仮名を元に漢字を崩した平仮名が出来ていた。「小倉百人一首」の最初の一句が天智天皇の「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」があるように、天智天皇の時代には歌詠みが宮中で行われていた。『万葉集』一巻の二〇に額田王の「茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」があり、その句の後の一巻二一に大海人皇子の「紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも」この二句で中大兄皇子と大海人皇子の兄弟と額田王との三角関係が噂されたとか。
 『万葉集』の完成は、七八三年頃に大伴家持によって完成されたと言われていますが、一巻の五三番までは、持統天皇と柿本人麻呂が関与していると言われ、その後の二巻までは、元明天皇と太安万侶が編纂にあたったようです。この頃、宮中では詠歌を通じて天武天皇、持統天皇、柿本人麻呂、太安万侶たちは、結構親しくしていたようです。そこで、柿本人麻呂という人物、『万葉集』ではわりと有名ですね。『万葉集』に長歌一九首と短歌七五首も掲載し、なかなか風流な方ですね。
 『古事記』で太安万侶が第一人者で、『日本書紀』にも関わり、『万葉集』も。官僚でありながら文化人だったようです。ただ、稗田阿礼と言う人物はこの『古事記』でしか登場していないのです。宮中の氏族で稗田氏が存在していたか。アメノウズメの子孫、猿女君の末裔が稗田氏。朝廷の祭祀を司る官として稗田氏が存在していたようです。そんな職種であったため、稗田阿礼は藤原氏や中臣氏と関係があるのではないかという説もあります。
 稗田阿礼が舎人という役職を持って、天武天皇に仕えていたとすると、偽名を使っていたのではないか。それが柿本人麻呂としたら。また、天武天皇の子、草壁皇子の舎人も務めていた。そして、持統天皇とは同世代で、柿本人麻呂は寵愛を受けたようです。稗田阿礼が天武天皇の紹介で、太安万侶と対面したときは二八才だったとすると、柿本人麻呂が同一人物と考えることもできる。
 柿本氏は、仁賢天皇や雄略天皇や継体天皇に妃を送り込んだ和邇氏(春日氏)の末裔にあたり、天武天皇の時代には蘇我氏や藤原氏よりも下級の官人に成り下がってしましたが、古墳時代にはかなりの地位を占めていました。そして、昔話では和邇氏族のころからの言い伝えはよく理解していたと思います。

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