『後漢書』東夷伝には桓帝・霊帝の時代(146年~189年)に倭国大乱が起こったと記されています。実際にはその時期がいつ頃であったか未だに解明されていません。『三国志』魏志倭人伝では、邪馬台国の卑弥呼によって倭国大乱が治まったとなっています。『三国志』は倭国大乱から100年以上経ってから書かれ、『後漢書』は250年も前の出来事を簡単に書かれています。その当時の日本の状況は、中国の歴史書だけでは判断出来ませんね。『古事記』や『日本書紀』にしても、700年初期に完成し、倭国大乱からは500年以上も前の出来事なので、殆どが作り話のようになってしまっています。
 太平洋戦争前、この倭国大乱は九州の熊襲の反乱を治めるために仲哀天皇が山口の穴門豊浦宮に滞在し、その後にようやく筑紫橿日宮に入り、熊襲と戦ったことだとされていました。その後、神功皇后が活躍し、倭国大乱を治め、ヒーロー的な存在でした。それが、戦後、GHQにより神功皇后の存在を政治的理由から否定してしまった。戦前では、卑弥呼と神功皇后が同一人物だという主張もあったぐらいです。卑弥呼は250年頃の人物だし、神功皇后は400年頃の人物ですから、全くの別人ですね。
青谷上寺地遺跡の人骨 倭国大乱の頃、日本では何が起こっていたのでしょう。1998年に鳥取の青谷上寺地遺跡から大量の人骨が発見され、2001年にその人骨の頭蓋骨から古代の脳ミソが発見された。そして、その人骨のDNAを2018年11月に鳥取県埋蔵文化財センター(鳥取市)や国立科学博物館(東京都)などが連携した研究を発表した。その結果、ちょうど倭国大乱の時代の人骨で、この地に住んでいたのは朝鮮半島や中国大陸からの渡来人系だと判明しました。
青谷上寺地遺跡の人骨記事
 山口県下関市の土井ヶ浜遺跡から発見された人骨も、4世紀の韓国慶尚南道金海の礼安里遺跡の人骨と同じ特徴があり、さらに最近の調査で、中国山東省の遺跡で発掘された漢代の人骨資料の中に、土井ヶ浜人ときわめてよく似た形質をもつ人骨が発見されている。福岡平野と佐賀平野の遺跡から発見される人骨も渡来系で、倭国大乱よりかなり古くから日本に住み着いていた。それが佐賀県神崎郡の吉野ヶ里遺跡や長崎県の遺跡から出土される人骨は、縄文人と渡来人の混血となっています。1999年3月に東京国立博物館で江南人骨日中共同調査団が結成され、江蘇省の墓から出土した60体(28体が新石器時代、17体が春秋戦国時代、15体が前漢時代)の頭や太ももの骨、 歯を調査した。その結果、歯のDNA分析から江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県太宰府の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致したと発表された。
渡来系弥生人と縄文人の人骨比較
 このように稲作が早期に始まった九州でも縄文人や縄文人と弥生人のハーフや渡来系弥生人が集落ごとに集団生活をしていた。山陰の出雲地方や山陽の周防や吉備でも同じ現象があったと思われる。それが集落から郡(邑)に、さらに小国と勢力範囲が拡大していく中で、異質な民族(集団)との土地争いが始まり、戦争に発展していった。そんな時代が倭国大乱の時代なのです。当然、勝者と敗者が存在し、勝者は敗者に対して種稲を貸し与え、収穫期に収穫量の中から初穂料を徴収する制度、出挙が自然と成立することになった。現在で言う利子付き貸し借りです。そうして、勝者は財源を増やし、鉄器による軍事器具を整えていった。そして、倭国大乱が治まった頃には勝者がヤマト王権となっていく中で、敗者の敗者などは利子付きの種稲を手に入れることが出来ない集落や邑はヤマト王権に没収されることになる。それが屯田(みた)です。荒廃した田畑をそのような敗者の敗者に与え、開墾も行っていたようです。そのような人民を民屯と言います。ヤマト王権は屯田を拡大し、屯倉(みやけ)と発展していきます。この屯倉で生活している人達は、普段は農耕に従事しているが、戦争や治水工事には兵士として、工事作業員として従事させられていました。これが古代の租税制度で、えつき(労役、兵役、絹、綿など税)、税(たちから:穀物による物納)、調(みつぎ:穀物以外の物税)、役(えだち:労役)があった。屯倉は官田ということだけでなく、人民を支配する制度であった。この屯倉制度により、治水工事や古墳築造にそのような人民が租税として労役に従事した。
継体天皇没後の屯倉
 垂仁天皇の時代には、倭屯倉と言い、古代の大和国城下郡三宅郷、現在の奈良県川西町一帯であったが、仁徳天皇の頃には、河内平野の治水工事により、現在の大阪府交野市の茨田三宅や大阪市住吉区我孫子から大阪府松原市の依網屯倉がある。そして、継体天皇の子、安閑天皇、宣化天皇時代には九州から関東まで屯倉が存在していた。孝徳天皇の頃まで、百済や任那にも屯倉があった。それ以後、屯倉から均田制が導入され、屯倉が官田と変化していった。

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