世界の王室の中で、日本ほど長期にわたって続いている皇室はないですね。現在の徳仁陛下で126代目。これは、世界でも自慢できる。初代神武天皇が奈良県橿原宮で即位したのが、紀元前660年だそうですから驚きですね。以前、平成天皇が天皇家の祖先について、「私自身としては、桓武天皇の生母(高野新笠)が百済の第25代武寧王の子孫である」と語られたことがあって、その当時、「天皇家の祖先は朝鮮人」と話題になった。このことは、平安時代初期に菅原真道が編纂した『続日本紀』に書かれていたことを引用されたみたいです。
現在の皇室
武寧王陵 百済の武寧王については、平安時代末期に高麗の第17代仁宗の命で編纂された『三国史記』の百済本紀に512年に宿敵、高句麗を打破して、521年には中国南朝の梁に入朝して「百済はかつて高句麗に破られ何年も衰弱していたが、高句麗を破って強国となったので朝貢できるようになった。」と上表し、格上の爵号を進められたと記載されている。また、1971年に韓国の忠清南道公州市の宋山里古墳群から武寧王の墓誌が発見され、金環の耳飾り、金箔を施し武寧王陵の木棺(復元、国立公州博物館展示)た枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3,000点近い華麗な遺物が出土され、王妃を合葬した磚室墳には日本にしか自生しないコウヤマキ製のお棺が設置されていた。このことから、武寧王時代の百済では中国の南朝との付き合いがあり、仏教だけでなく暦や漢字も南朝から百済経由で日本に入ってきたことが窺える。
 一方『日本書紀』には、武寧王のことがもっと詳しく書かれていて、「武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の昆支王を倭国に貢る際、自身のすでに妊娠した婦を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王であるとしている。また、即位については武烈天皇紀4年(502年)是歳条には百済の末多王(牟大、東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王としたとしている。」と。このことは、嶋王として40年もの間、百済と日本を行き行きし、日本にも滞在していたことになる。その嶋王の子に余明と純陀がいた。嶋王が40年間、日本で生活していたとするとふたりも日本で育っている。第一子純陀は早死にしたので、523年に武寧王が死去して余明が第26代百済王、聖王となった。この頃、日本では継体天皇の時代ですね。武寧王の時代に大伴金村による任那4県割譲要請が行われ、聖王の時代に仏教公伝が行われています。また、もう一人の子、純陀も子孫がいて、渡来氏族、和(倭)氏となり、和乙継の娘が奈良時代の第49代光仁天皇の妃になったことにより、和氏は高野姓を朝廷から賜与された。この妃が高野新笠です。
 このことは、百済の一部、特に任那辺りの人と天皇家は遠い親戚関係にあったと思われます。また、崇神天皇から垂仁天皇の時代、応神天皇以前、神功皇后が三韓征伐をする前、4世紀頃までは、新羅にも遠い親戚がいたようで。新羅が斯羅國であった頃、その当時の昔氏王朝があった時代、この政権は日本の天皇家と遠い親戚関係にあり、『古事記』の応神天皇記にはその昔に新羅王子を自称するアメノヒボコが渡来したとあり、その渡来理由が次のように書かれています。「新羅国には阿具奴摩という名の沼があり、そのほとりで卑しい女が1人昼寝をしていた。そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事を窺っていた卑しい男は、その赤玉をもらい受ける。しかし、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかと咎められたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した。天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。しかしある時に天之日矛が奢って女を罵ると、女は祖国に帰ると言って天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。これが難波の比売碁曾の社の阿加流比売であるという。」結果的に、天之日矛は比売許曽神社妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着き、アカルヒメと逢うことができず、但馬国に移り住み、前津耳の娘のマタノオを娶り、但馬諸助を儲けたとし、これが清日子の祖父。この清日子の子孫が神功皇后となる。難波の比売碁曾の社は、大阪市東成区にある比売許曽神社で、元々は大阪市天王寺区小橋町にあった神社で、主祭神は宗像三女神のタキリビメとオオクニヌシの間に生まれたシタテルヒメ。すなわち、アカルヒメは古くから航海安全の守護神を祀っている宗形氏を頼ったのでしょう。アカルヒメは宗形氏の出だったかも知れませんね。
  天皇家の祖は神武天皇となっていますが、実際のところ実在人物ではなかったと思われます。しかし、天皇家の発祥の地は北部九州、特に佐賀の唐津から福岡の糸島辺りだと思われ、その同じ民族が朝鮮半島南部にも拠点を置いていた。新羅のアメノヒボコ辺りまでは、天皇家の遠い親戚、同じ民族だったと思われます。それが、新羅では金王朝になって、北からの秦の残党と言われている遊牧民族が支配し、新羅にいた天皇家と同じ民族は百済に逃げ込み、そのため、神功皇后の三韓征伐があり、日本で生まれたと言われる武寧王やその子の聖王が百済王になっていることを考えると、弥生時代の渡来人も元を正せば、縄文人、或いは紀元前8世紀から3世紀に渡来した人と縄文人の混血であると私は理解しています。


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