斎王代列 京都三大祭のトップを切って、令和元年5月15日に葵祭が開催されましたね。京都御所から賀茂御祖神社・賀茂別雷神社までの平安絵巻を彷彿させる行列がメインですね。この祭りのメインは、今年斎王代に選ばれた京都の女性が十二単をまとい、四方輿に正座され、内侍に牽かれるシーンですね。斎王とは、伊勢神宮の斎王を現し、今年も平成天皇が伊勢神宮に参られ、神宮親謁の儀をなされた際に斎王を務められたのは黒田清子さまでした。斎王を務められるのは皇室の未婚の内親王、女王となっているそうです。現在、内親王も女王もおられないので、平成天皇のお子様、黒田清子さんが務められた。葵祭の斎王は「斎王代」となっていますので、斎王の代わりですね。賀茂御祖神社・賀茂別雷神社の斎王を設けたのは、葵祭の起源、欽明天皇の時代からではなく、平安初期の嵯峨天皇が810年に伊勢神宮の斎王にならって、賀茂の社に斎王を置いた時から始まっています。しかし、鎌倉幕府と後鳥羽上皇との政変、承久の乱(1221年)で完全に皇室の権威が失われてから、葵祭は続けられても、斎王行列は廃止されました。第二次世界大戦が終わり、昭和28年に葵祭の主役として斎王行列が復活することになりました。斎王代列になったのですね。
葵祭の駆競 結局は、斎王と言うシステムを現在でも採用にしているのは、伊勢神宮だけなのですね。元々、葵祭は欽明天皇の567年に風雨が激しく五穀が実らない年があったのですね。その時に欽明天皇が賀茂の大神の崇敬者であった伊吉の若日子に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるというので、若日子は勅命をおおせつかって、4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人は猪頭をかぶって駆競をした。これが葵祭の始まりなのです。日本の祭りの始まりは、この葵祭だと言われています。
斎宮の居室 『日本書紀』によると、崇神天皇の時代に百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった時に、宮中でアマテラスとヤマトノオホクニタマを祀っていることに原因があると判断されて、紀国造の荒河戸畔の娘、遠津年魚眼眼妙媛との間に生まれた皇女、豊鍬入姫命を斎王としてアマテラスを笠縫邑に移させた。そして、垂仁天皇の時代に彦坐王の子である丹波道主王の娘、日葉酢媛との間に生まれた倭姫命が伊勢神宮にアマテラスを創祀した。これが斎王の始まりとされている。豊鍬入姫命と言うと紀国造の主祭神、日前神との関係があり、日前神宮には神体として伊勢神宮の八咫鏡と同等のものが祀られている。豊鍬入姫命がアマテラスの神体、八咫鏡を作ったのでしょうね。また、倭姫命は、伊勢神宮が創建されるまで、アマテラスの神体、八咫鏡を「元伊勢」に遷幸し、皇大神宮(伊勢神宮内宮)の完成とともにアマテラスを祀る最初の皇女となった。甥のヤマトタケルに草薙の剣を授けたのも倭姫命ですね。斎王が住む斎宮が設けられ、天皇一代に一人の斎王という制度が出来たのは、天武天皇の時代になってから。斎宮の終焉下賀茂神社の古代祭祀場は、後醍醐天皇の南北朝時代に絶えてしまった。
 現在では、葵祭として京都の人に親しまれていますが、この祭りが始められた時は賀茂祭と呼ばれていました。2005年に賀茂御祖神社境内の糺の森の発掘調査を行ったそうです。すると、糺の森に古代の祭祀場が発見された。古くから賀茂族がこの地に住み、祭事を行っていたようです。そして、欽明天皇の時代から京都にある賀茂の社は、飛鳥の地でも二葉葵(賀茂葵)られていたのでしょう。平安京に遷都されてからは、現在の祭りの行事が行われ、見物客もいたようです。その頃は、葵祭とは言わず、賀茂祭と言われていました。徳川家の紋葵祭と言われるようになったのは、江戸時代です。賀茂族の家紋が葉が2枚の葵の紋で、徳川家の紋も葵の紋だったこともあって、葵祭と言われるようになった。
2019年5月19日


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