紀元前900年頃に、北部九州(長崎・佐賀・福岡)で水田式稲作が始まった。その当時、で生活していたのは縄文人。稲を湿地帯に植える自然栽培は行っていたが、灌漑とかの土木の技術は持っていなかった。中国では、春秋時代で戦争が絶えず、呉や越の難民が黒潮に乗って、この北部九州に。そして、水田式稲作を伝える。その人達は、徐々に縄文人と混合して、新しい日本人が誕生し、今までの家族単位で生活していた縄文人は、その地を離れ、新天地を求めて、東へ。或いは朝鮮半島に渡った人も。群がっていた混血の日本人は、中国の文化を吸収しながら、集落を結成していった。そして、集落から大集落になり、稲の収穫の拡大を求めて、田んぼを増やすために土地開拓を進め、小国家としての機能を持つようになった。北部九州に小国家が誕生するのが、紀元前200年頃でした。その700年の間は、土地の奪い合いによる戦いなどはない平和な生活が続いたと思います。その間でも中国からの難民は続いていたようで、その人達による集落の襲撃はあったと思います。
貨泉 中国で春秋・戦国時代が終わり、漢の時代になったころ、大集落の一部は、中国と貿易を始めます。福岡県糸島市志摩御床松原の砂丘地で、長崎県壱岐島の原の辻遺跡や大阪市の瓜破遺跡、大阪府の亀井遺跡からも紀元14年製の中国の王莽貨泉が、これらの弥生時代遺跡から発見されています。この頃になると貿易で富を増した国、或いはその富を狙う国、稲作だけで生計を立てている国との間に貧富の差が出来てくるのですね。紀元100年代には、日本で小国同士の戦争が始まります。中国では面土国、日本では佐賀県新崎町の吉野ヶ里集落の大王、帥升が後漢の光武帝に使者を送り、金印と倭国王の名称を授かりにいった紀元107年の頃、すでに縄文人系集団が押し寄せてきていた可能性があります。そして、『三国志』の「魏志倭人伝」に書かれている倭国大乱が146年~189年の間に起こっています。この大乱は、徐々に縄文人と渡来人の混合した新しい日本人、大きな富を得た集団と貧しさが漂う縄文人系集団との戦いでした。この大乱を治めたのが、近畿にいた渡来集団と連合軍を組んだヤマト王権(垂仁天皇から景行天皇の時代)。ヤマトタケルが九州征伐にいった話だと思われます。北部九州の小国とヤマト王権は渡来集団によって、結ばれていたのかも知れませんね。その北部九州の小国と渡来集団で卑弥呼という飾りの邪馬台国を建てたかも知れませんね。
青谷上寺地遺跡の人骨 この頃の吉野ヶ里遺跡や複数の弥生遺跡から鉄の矢尻が刺さったままの人骨の入った甕棺が発掘されています。この大乱は北部九州だけでなく、山陰・山陽地方にも波及し、鳥取県の青谷上寺地遺跡には、頭蓋骨に矢尻が刺さった跡の人骨と脳みそが2000年5月に出土されています。この時代には、鉄が中国から導入されていたのですね。頭蓋骨に矢尻が貫通していたとなると鉄器しか考えられませんね。ヤマト王権は鉄器によって日本を占領した。
 この鉄器の大本締めが息長氏だった。息長氏は、『古事記』でも『日本書紀』でも皇室扱いになっている。最初に出てくるのが息長水依比売で、第9代開化天皇の子、日子坐王の妃。ここで異母兄弟の崇陣天皇との関係を示し、息長族は皇室入りしている。その日子坐王の曽孫が息長宿禰王、神功皇后(息長帯日売)青谷上寺地遺跡の脳みその父に当たる。この系統は、神功皇后までで、その後は『記紀』に現れてこない。もう一つの系統は、ヤマトタケルの子、息長田別王で、この系統から応神天皇の妃となった息長真若中比売がいます。その二人の子が若沼毛二俣王で4代後の継体天皇となる。いずれにしても、息長氏は皇族扱い。継体天皇以後では、第34代舒明天皇、推古天皇の次の天皇で、蘇我氏の血が入っていない天皇。この天皇にも、息長足日広額天皇となっているから、息長系かも知れない。それにしても、息長氏は、皇室と深い関係にあったことには違いない。

息長氏の家系図
 息長氏の本拠地は、近江で現在の滋賀県米子市と長浜市の一部。播磨とか河内とかの説もあるが、一般的には近江です。この本拠地のすぐそばに伊吹山があります。その伊吹山から良質の鉄鉱石が産出しています。やはり、息長氏は鉄に関わる集団だったのです。この地から出雲の方まで勢力を伸ばすことも可能だし、越後や尾張以東の豪族に睨みを聴かすことも可能。鉄に関係がある和邇氏とも関係が深い。この辺りの新しく日本にやって来た渡来集団とヤマト王権の天皇家が手を結んで、縄文人系集団を押さえ、倭国大乱を終わらせたことになる。

2019年5月5日



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