第5章 百花繚乱 第4節

 晴美が歴史民俗資料館の扉を開けようとしたとき。
 「しょっと、待って。」
 「どうしたの。」
 俊樹は、階段を半分上がっていたのにUターン。
弥生式竪穴住居跡 「あの標識を見てくる。」
 「弥生式竪穴住居跡ね。」
 「この辺りには、1,700年から1,600年前の集落があったらしい。堀立柱建物跡が4棟、竪穴式住居跡が10棟も。かなり大きな集落だ。それにあの煉瓦の形からみて、隅丸方形・長方形住居のようで、カマドも設置されていたようだ。古墳時代前期から中期に掛けての住居跡だな。」
 「さぁ、資料館に入りましょう。この辺りで発掘された製塩土器や魚をとる網に付けるおもりも展示されていますから。」展示室(歴史民俗資料館)
 「晴美さんじゃないか。」と俊樹たちに近づいて来たのはここの館長だった。
 「おはようございます。彼は松井俊樹といいます。」
 「私、館長の小林です。今日は、彼氏を連れてきたのかい。」
 晴美は、はずかしそうにうなずいて、「東京の大学から昨日帰ってきて、何か徐福のことを調べたいと。そこでここに。」
展示品(歴史民俗資料館) 「そうだったのか。松井さんも一緒に、私の部屋まで。」
 館長に案内された部屋は、資料館の3階にあった。
 「珍しいですね。その若さで徐福のことを調べておられるとは。」
 「私、大学で日本文化の起源を専攻していまして、先生に帰郷したら徐福のことを調べるようにと宿題を頂いたものですから。」
 「それでここに。この辺りには弥生時代から古墳時代前半までの集落があって、何故かあの飛鳥山が蓬莱山と呼ばれる言い伝えが。そんなことで、2004年にユネスコの世界遺産に登録された熊野古道の入り口として、この辺りも注目が集るようになり、その頃、かなり整備されました。」
阿須賀神社 「この辺りは、阿須賀神社の境内ですか。」
 「そうですね。阿須賀神社には徐福宮があり、昔から徐福はこの地方の方に信仰され、大切に守られてきたようです。この阿須賀神社は、古墳時代から飛鳥時代、奈良時代に掛けては今の熊野三山(本宮大社・那智大社・速玉大社)よりも尊ばれていたようです。それが藤原氏と菅原道真の確執があって宇多天皇が仏門徐福宮に入り宇多法皇になられて、熊野三山詣でが始まります。そのため、宇多源氏の関係から鎌倉・室町時代までは阿須賀神社も栄えたのですが、次第に廃れていきました。江戸時代になって、藩主、徳川家宜の命によって、新宮城主の浅野家や水野家によって再建され、現在に至っています。」
 「徐福は徐福公園に墓があって、この地で亡くなられたのでしょうか。」
 「徐福宮も、徐福の墓だと言われています。徐福の墓と言えば、そうそう、山中湖村長池の羽田さん宅から、徐徐福の山中湖の墓室福の祠が発見されたという毎日新聞の記事を見たことがあります。徐福はこの阿須賀にたどり着いて、富士山麓まで足を伸ばしたのでしょうかね。徐福伝説は各地にあって、不思議ですね。その新聞記事、ファイルにしてありますのでお見せしましょう。」
 俊樹はその新聞記事を見て、ひとつの疑問が湧いた。
 「確かに、山梨にも徐福伝説があったのですね。この羽田さんとありますが、徐福の子孫ですか。それと、徐福公園の徐福の墓に書かれていた『秦徐福之墓』で徐福の上に秦とあるのは何故なのでしょうか。」
 「秦の始皇帝の命で、徐福に連れられてきた3,000名の子孫達は、秦国を誇りに思っていたのでしょうね。それで徐福も秦から来たので、秦の徐福となったようです。」
 「なるほど。羽田さんも秦国の子孫なのですね。そのような人達は何故、『秦』と言う漢字を使わず日本読みの『ハタ』の当て字を使ったのでしょうか。」
 「それはわからないですが、ここから伊勢道を通って数10㎞の三重県熊野市山梨の徐福の墓に波田須という海岸線沿いの村があります。そこにも3,000名もの秦から来た子孫が住み着き、波田と名乗っています。どうも、故国の『秦』から波田,波多,羽田,畑など『ハタ』と読む漢字をあてたようです。」
 「俊樹さん、そろそろお邪魔しよう。所長さんもお忙しいですから。」
 「そうしよう。」と言って、俊樹と晴美は立ち上がった。
 「どうも、いろいろなお話を聞かせて頂いてありがとうございました。では、ここらで。」
 歴史民俗資料館を出たところで。
 「これからどうする。阿須賀神社でも参拝しますか。」
 「そうしよう。」


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