第4章 永永無窮 第3節

 たつやも教壇から戻り、ケイコの米の発表を聞くことにした。
陸稲の様子 「先生が言われたサティバ種のジャパニカ米は、熱帯ジャポニカ種のことで、現在でもインドネシアやアジアの熱帯地域では行われている耕作方法(陸稲)で栽培されています。この熱帯ジャポニカ種の弱点は、温帯ジャポニカ米に比べて、脱穀しやすくその関係もあって、それと稲穂の背が高いため脱穀する前に種子が落ちてしまい、生産量が低い。それと、寒さに弱かったのですね。そこで、寒さに比較的強く、稲穂が垂れ下がらないくらいの背の高さで、脱穀し難い温帯ジャポニカ米が、7,000年前ぐらいに中国の揚子江周辺で栽培されるようになりました。」
 「水田による稲作が長江流域で始まったのと一致しますね。」
温暖湿潤気候の地図 「そうですね。熱帯ジャポニカ米が温帯ジャポニカ米に変異していった経緯は、気候にあるようです。ドイツの気候学者ウラジミール・ペーター・ケッペンが提唱したケッペンの気候区分では温暖湿潤気候に属し、夏は高温(22℃以上)で雨が多く、冬は低温(-3℃以上18℃未満)で四季がはっきりしています。全く日本の気候ですね。中国の揚子江周辺もこの気候にあたります。年平均降水量は、1,000mmを超えることが多いため稲の生育に適しているようです。ただ、夏から秋にかけて台風や熱帯低気圧が発生しやすく降水量が増え、災害も多い。」
 「ケイコさんは、気候まで勉強したのですか。長江流域では夏から秋にかけて降水量が多いため、長江周辺の川が増水して氾濫したようです。これは、中国の神話にも出てきて、伏羲と女媧が巨大な瓢箪に乗って洪水の難を逃れたという神話があります。伏羲と女媧の神話は長江辺りから出てきた話ですからね。ケイコさん、続けてください。」
 「はい。7,000年前の揚子江周辺で熱帯ジャポニカ種を植えたと思うのです。この地域、川も多く、河川の氾濫もあって、湿地帯が多かったと想像します。日本米が世界で一番おいしい米と言われている要因に、水分を含ませそれに熱を加えると粘りやツヤが出る。この要因は、6月の梅雨の時期に稲の苗をそそいだ水浸しの田んぼに植え、苗が水分を含み、真夏の太陽によって、スクスクと育つ。この日本の稲作方法は、揚子江周辺の湿地帯で熱帯ジャポニカ種を植えたときに異変がおきて、温帯ジャポニカ種に変異する過程とよく似ている。この現象が水田による稲作の始まりだと思います。」
 良祐は、ケイコのこの発表を聞いていて、とっさにケイコに合図した。
 「青柳くん、何か。」
 「すると、湿地帯が多い日本では、かなり前から熱帯ジャポニカがあったと言うことですか。先生。」
東名遺跡の地図 「うん。日本では、水稲(水田による稲作)は7,000年前頃にはなかったと思う。でも、陸稲はあったのではないだろうか。国内最古の湿地性貝塚、佐賀市の東名遺跡から縄文時代早期、約8,000年前の木製編み籠が発見された。この東名遺跡は、縄文海進が16,000年前から7,000年前まで続き、約8,000年前には海岸線でした。木製編み籠がどのように使用されていたかは定かではないですが、私の思うには熱帯ジャポニカ種のもみ殻を削除するための物ではなかったかと。」
 「約8,000年前に。先生、この辺り、約7,300年前の鬼界カルデラの大噴火により、鬼界アカホヤ火山灰で埋まってしまったのではないですか。その火山灰の下の層で木製編み籠が。その籠で籾米を入れて脱穀したのですか。」
木製編みかご 「ケイコさん、東名遺跡の木製編み籠は保存状態がよく、完全な状態で発見されました。完全な形の木製編み籠は、今のところ日本では最古のものです。しかし、一部の籠でしたら、約10,000年前に滋賀県大津市晴嵐沖の琵琶湖湖底にある、瀬田川河口付近の琵琶湖の東岸であった地域の粟津湖底遺跡も発見されています。この遺跡では、稲の種は発見されませんでしたが、土器やクリ・トチ・クルミの実などが発見されています。」
 ケイコは、たつやの話しに聞き入っていて、もっと米の研究をしなければと思っていた。


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