第2章 潜移暗化 第3節

 古事記にしても出雲国風土記にしても歴史根拠は乏しいが、さとしの卒論には日本の神話のことも書かれており、古書もある程度の参考になっているようだった。
 「先生、ヤマト王権と出雲の関係は、古事記や出雲国風土記を読めばある程度わかるのですが、どうも鉄器と関係深い出雲民族は、どのように日本に来たかはわかったのですが、どこから来たかがまだわからないのですが。」
 「青銅器の銅鐸が、西日本で発見されていますが、出雲がそれらの地域よりもかなり多くなっていますね。出雲の人達は、たたらの鉄器を作る集団だと言われていますが、元々は青銅器を盛んに作っていた民族のように思います。」
 さとしは、たつやが言っている青銅器の話を聞きたくなった。
 「先生、出雲民族が青銅器文化を栄えたところから来たと仰いましたが、その当時、青銅器を生産していたところは、中国では多くあるのではないですか。」
 「青銅器をたくさん製造していた人達でこそ、青銅器の欠点をよく知っていた。鉄器も製造過程では、原料が違うだけで作れますし、鉄の方が頑丈だということも知っていたと思います。」
 「確か、現在でも中国の鉄鉱石の産出は世界一でしょう。ただ、品質はあまりよくないそうです。韓国でも鉄鉱石が採れますね。日本では殆ど採らなくなりましたが、長野県の柏原鉱山、熊本県の第一阿蘇鉱山、大分県の新木浦鉱山ではいまでも創業しています。他でも採れるそうですが採算が合わないそうです。中国の鉄鉱石は安いですからね。」
 「出雲や吉備のところで鉄鋼石が採れましたからね。出雲民族の人達が出雲を選んだ一つが産地に近かったからでしょう。そして、鉄鉱石を鉄にするのに森林木が必要でしたからね。」
鹿方鼎 「青銅器をたくさん製造していた人達。出雲の人達は、中国のどの辺りからきたのでしょう。」
 「中国で、紀元前17世紀ころ夏を倒した殷王朝の末柄だと言われています。でも、考古学的に証明されていないので。殷王朝が栄えていた河南省の安陽市にある殷墟の遺跡から当時使っていた青銅器が発見されています。」
 「安陽市の殷墟博物館で、史上最大、最重量の鼎、司母戊鼎を見たことがあります。」
九鼎 「中国の諺に『問鼎軽重』があって、鼎の軽重を問うということで鼎も重量によってその政権の存在を計った。だから、殷墟に最重量の鼎があるのでしょう。鼎の中に、三本足の九鼎があり、その鼎は夏王朝から殷王朝へ、そして、周王朝に渡り、政権の象徴とされた。」
 「先生は、出雲民族が殷や周に関係があるとお思いですか。」
 「はっきりと確言できないですが、周の武王となる姫発と周の時代になって斉の国を与えられた太公望とも言われる呂尚とが、紀元前11世紀に起きた牧野の戦いで殷の帝辛率いる軍を大敗に追い込んで殷王朝は滅びる。殷が滅んだ後に、帝辛の親戚の箕子が殷の敗北者とともに朝鮮半島に流れて来た。そして、その警護を兼ねて、太公望を山東省辺りの斉国の王に据える。」
 「その話と出雲民族と関係があるのですか。」
 「中国の戦国時代を終わらせた秦の始皇帝が、斉や燕の国を滅ぼしたときに、斉国、山東省や燕国、河北省の殷や周を先祖とする人達が朝鮮半島の釜山辺りから日本を目指したと思います。」
 「殷王朝が周王朝に滅ぼされたときに、殷の人達は河北省辺りに移住したのですか。」
 「南の江蘇省辺りにも。そして、周王朝の初代皇帝の武王の父、文王の兄、太伯と虞仲の配下になった人達もいる。春秋時代の呉の人達ですね。」
 「紀元前11世紀の頃から紀元前3世紀の頃まで、殷の人達は周王朝に従い、春秋・戦国時代の戦下をくぐり抜け、700年の間に丸太舟で日本にやってきたのですね。」


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