第1章 玉石混淆 第4節

 たつやは、東京大学大気海洋研究所の川幡穂高先生が研究されている縄文時代の気候と人口資料を持ち出してきた。
縄文時代の人口移動図 「ケイコさんもさとしくんも、この縄文時代の人口推移図を見てごらん。」
 「ケイコさん、ここ、確かに、縄文時代中期には東日本に集中していますね。そして、縄文時代後期に東北の方は、人口が減っています。そして、中部はあまり変わらず、西日本に少し増えていますね。」
 「これ、三内丸山遺跡の気候の変化を見るとクリが紀元前3,000年頃から低下していますね。」
 「ケイコさん、そうだね。この折れ線グラフはクリの花粉量を示しています。」
 「花粉が飛ばなくなれば、クリの採取量も減り、空腹から死に至る人も出て来たでようね。そして、クリが多く収穫できる地域に南下していくのですね。先生ぇ~。」
三内丸山遺跡の気候の変化 「元々、縄文人は採集狩猟の民族でしたから、この気候の変化でも人口推移図でもわかるように温暖化が進んでいた紀元前4,000年頃は、東日本に多くの人が集っていたのですね。その頃の推定では、日本に約26万人がいたというデータがあります。」
 「出雲の方でも、縄文時代後期には少しですが増えて。」
 「確かに、近畿や四国、九州は少しプラス、全体には減っているでしょ。紀元前1,000年頃には、8万人程度しかいなくなっていました。」
 「ほんとだ。」
 「2,000年の間に26万人から8万人ですか。食料難で餓死した人もいるかも知れませんが、それでも減りすぎではないですか。」
 「生活が出来なくなった人は、西日本に流れていった。それで、西日本でも食料、クリが乏しいことがわかり、海を渡った人もいたでしょうね。」
 「へぇ、朝鮮半島に。」
 「縄文人が朝鮮半島の南部に、住み着いたのは確かです。門田誠一先生の『韓国古代におけるヒスイ製勾玉の消長』という本では、現段階では、韓国の三国時代に出土するヒスイ製勾玉は日本列島より伝来されたと考えている。そして、数量的には伽耶お呼び新羅などの朝鮮半島南部に多出し、特に新羅の王墓を中心とした古墳から集中的に出土することから、日本から新羅へもたらされたと推定とあります。」
 「韓国にヒスイ製勾玉が持ち出されていた。」
 「勿論、糸魚川で採取される翡翠です。韓国には翡翠の産出地はありませんし、ヒスイ製勾玉の製作跡も見当たりませんからね。」
 「先生、いろいろと教えて頂いて、私がわからなかった、先生に聞こうと思っていた出雲こと。うっすらと見えてきました。先生、ありがとうございます。では、私はこれで。」
 「ケイコさん、言い忘れていたのですが、稲のことで。縄文時代晩期に、稲は日本に存在していたよ。」
 「それは、何処なのですか。」
 「約3,500年前に、岡山県の南溝手遺跡や津島岡大遺跡の土器胎土内からプラント・オパールが見つかっています。しかし、この頃、水田式稲作は行われていなかったので、畑で栽培する陸稲。だから、温帯ジャポニカ米ではなくて、熱帯ジャポニカ米ではないかと言われています。」
 「先生、ありがとう。それでは岡山に米の研究に行かなければならないですね。」


にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録