第3部 大和朝廷樹立 第2章 同盟
 
 イハレビコは、イッセと高千穂の宮で話した決意を胸に一の宮に帰ってきた。
 「コシノアカネは、いるか。」
 「はい、若、ここに。」
 「コシノアカネ、今軍艦は何処にいる。」
 「枇榔島に浮かべています。」
 「いよいよ、その軍艦が必要になったのだ。それと、その他に十隻以上の船がいる。」
 「若、いよいよ、軍艦を使うのですね。」
 「ミチノオミ、弓と矢尻は今どのぐらい用意できる。」
 「そうですね。百人分ぐらいですか。」
 「剣は如何だ。」
 「剣は、五十人分ぐらいです。」
 「そうか、では今ある鉄鉱石で、剣と矢尻を増産するのだ。」
 「コシノアカネは、十人位乗れる船をできるだけ多く作るのだ。」
 神武天皇の東征のことは、古事記によると、『いかなる地に住まいすれば、平らかに天の下のまつりごとを治めることができましょう。ここから出て東に行きませんか。』とイハレビコがイッセに伝えた言葉から始まっている。そして、海を北に向かって、豊の国へ。このいかなる地こそが、倭の国のことなのです。
 軍艦の話は、実際には神武天皇の時代にあったかについては定かでないが、宮崎県門川市枇榔島の昔話として残っている。枇榔島は、地元では、美人島とも呼ばれ、枇榔樹が生い茂った島に美女が住み着いていたという言い伝えからきていて、その美女を目的として、神武天皇の軍艦が枇榔島付近にたむろしていたという伝記なのです。
 一方、イッセは高千穂の宮に重臣を集めた。
 「今日、皆に集まって頂いたのは、先代の大君が亡くなられて、これからの日向の国のことを相談しようと思う。私の祖先は漢の国の太伯の末裔として、日向の国を治めてきたが、熊曾(隼人)の国も最近では落ち着きをみせ、一の宮で鉄器を生産し、軍備も整ってきたこの時期に、私達が太古から望んでいた葦原の中つ国、豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国を治める時がやってきた。これから、東の倭の国を目指して、葦原の中つ国を支配している部族と戦おうと思う。」
 その時、その場でざわめきがおきた。広渡川付近の部族のヤコメが口火を開いた。
 「大君、以前、熊曾の国と戦ったとき、オヨリ君を預かっています。それから、熊曾の国とも交流するようになり、私達はこの日向の国に残ります。でも、私達の中から優れた者を大君の部下としてお使いください。」
 すると、大淀川付近の部族のアラトや五十鈴川付近のカラヤもヤコメと同じ様なことを言い出した。
 「アギシはどうする。」
 五ヶ瀬川下流のアギシの部族は、一の宮の集落を築く時に、稲作を開墾するのに援助した部族でした。
 「私達は、豊の国とも近く、大君が築かれた一の宮の集落を守ろうと思います。」
 「そうか、皆の考えは分った。」
 日向の国の長老イグラが。
 「ヨホトネさま、私達は大君を守って行かねばならないですよ。当然、お供しますよね。」
 「当たり前だよ。私の部族は、タシトが実権を握っていて、私は隠居の身だが、タシト以下。すべてが、大君に付いていきます。」
 ヨホトネの横に座っていたコナキネもうなずいた。
 「私の部族は、祭祀を司る家柄ですから、当然、大君に従います。」
 「よく分った。今、一の宮でイハレビコが今回の東征のため準備をしている。皆も、この正月を過ぎたら、日向の国を出発するので、準備をしといてほしい。」
 正月が過ぎ、イハレビコは十人が乗れる船を二十隻用意し、軍艦には弓矢、剣、鎧、盾など軍事品を積み込んで、イハレビコ、ミチノオミ、オオクメ、コシノアカネ、オホノミカデオミ、カモノカサメルネ達が船に乗り込み、大淀川の下流にやって来た。高千穂の宮では、各地から続々と人が集まり、総勢二百人を越えていた。
 「イハレビコ、いよいよ出発だな。」
 「兄上も、よくぞ決心されました。」
 「ここにある食料を軍艦に積むように命令したところだ。」
 イハレビコ達は、大淀川を下って、軍艦や船に乗り、豊の国の宇佐に向けて出発した。
 「兄上、宇佐では、ウサツヒコとウサツヒメが私達の来るのを待っておられますよ。」
 「ウサツヒコとウサツヒメをもう見方に付けているのか。」
 「はい、正月前に挨拶に寄せていただきました。」
 古事記では、海を北に向こうて豊の国の宇沙に到り着くと、その土の人ウサツヒコとウサツヒメの二人が、足が一つしかない高い宮を作り、大きな宴を催して、巡り来たイハレビコとイッセをもてなしたとある。この当時、日向の国と豊の国は同盟国であったのだろうか。本章でも、古事記に記載にしたがって、ウサツヒコ達は、イハレビコ達を良き理解者として扱っている。
 イハレビコの一族は、中国の太伯の末裔としているが、中国古代史では、古公亶父の長男として生まれ、家督を三男の季歴に譲って次男の虞仲と共に春秋時代の呉(句呉)の国を建国した。そして、季歴の子、昌(周王朝の創始者武王の父、文王)が、太伯や虞仲に周の国に戻るように説得したが、全身に刺青をして、海で魚を素潜りで獲る民族と一緒に生活し、周には戻らなかった。しかも、太伯は子供に恵まれなかったので、呉の国を弟の虞仲に譲っている。そんな太伯が何故、鹿児島神宮の主祭神として、龍宮伝説のアマツヒコヒコホホデミ(山幸彦・ホヲリ)やトヨタマヒメと一緒に祀られているのか。それは、隼人の人達が中国の春秋時代に呉の国から渡って来た海人であったことを意味する。そして、太伯は元々、海人ではなかったが、呉の国に来て、海人となったように、山幸彦と似ている。
 イハレビコの祖父、山幸彦も海幸彦(ホデリ、山幸彦の兄)から釣り針を借りて、魚釣りをしていたところ釣り針をなくして、釣り針を山のもので作って変えそうとしたが、元の釣り針を返すように言われて、困っていたところにシホツジ(潮の神様)が現れて、竹籠の船を造って、潮の路に沿って流されたところにワタツミの宮があり、大きなカツラの木の下にワタツミの娘(トヨタマヒメ)が現れるので、そのヒメと相談するようにと言われ、この娘といっしょになって、三年間、ワタツミの宮にいて、ワタツミの助けで、元の釣り針を探しだし、海幸彦に釣り針を返した。そして、田を作る時には、海幸彦と反対のところに作り、ワタツミ達が応援することを約束した。それで、山幸彦は海幸彦より水田による稲作を成功させ、海幸彦は田を作るのに失敗して、貧しくなってしまった。この山幸彦と海幸彦の神話と太伯の話に共通点があり、中国の呉の国から渡って来た部族が隼人に住み着き、日向の国のイハレビコの祖先となったのではないでしょうか。
 鹿児島神宮の主祭神として祀られている仲哀天皇、神功皇后、応神天皇なのですが、どうしてアマツヒコヒコホホデミやトヨタマヒメと一緒に祀られているのでしょうか。隼人の人であろう神武天皇が東征した時に、中国の呉の国から渡って来た部族はまだ、隼人や熊曾に住み着いていた。それらの人々が大和朝廷の支配に反旗を翻したために、第十二代景行天皇の子、ヲウス(ヤマトタケル)が熊曾退治に向かい、そのヲウスの子、第十四代仲哀天皇が九州制定で、熊曾の部族と戦いに費やし、その後、神功皇后や応神天皇が三韓征伐や北九州の大和朝廷の反対勢力と戦っている。その時に、神功皇后が対馬で八本の旗を祭壇に立て、祀った。また、幡は、神々が寄り付く依りしろの旗を意味していることから、神功皇后が掲げた旗を八幡と言い、また、応神天皇が降誕した家城に八つの旗が立てられたのも八幡であり、応神天皇を奈良時代(七百十年~七百九十四年)には八幡神と呼ばれた。そのようなことで、欽明天皇の五百七十一年に宇佐神宮(宇佐八幡宮)が創建され、応神天皇、比咩大神(宗像三女神)、神功皇后が主祭神として祀られている。この地こそが、仲哀天皇や神功皇后や応神天皇が隼人の人達の熊曾の国と戦ってきた拠点なのでしょう。この宇佐神宮の末社として、敷地内に宇佐祖神社があり、ウサツヒコとウサツヒメが主祭神として祀られている。このように、ウサツヒコとウサツヒメは、天皇家と深い繋がりがあった。
 イハレビコ達は、周防灘の柳ヶ浦に到着した。その時、ウサツヒコとウサツヒメは海岸まで、出迎えに来ていた。そして、イハレビコとイッセは、ウサツヒコとウサツヒメに案内されて、足一騰宮に到着した。そして、東征の成功を祈念して宴を催してくれた。


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