第2部 漢委奴国王印 第4章 八幡神(1)
 
 イハレビコの集落、庄内では稲かりも終えた頃、大君から新嘗祭についての打ち合わせがあるので、高千穂の宮に来るようにと、お達しがあった。
 イハレビコ、ここへ座れと、大君が諭した。イハレビコは、日向の国の政に参加するのは初めてであった。新嘗祭の打ち合わせの進行役を勤めたのは、長老のイグラで、祭祀を司るコナキネ、久米の部族のヨホトネ、各集落の長が集まっていた。
 「皆さん、稲の収穫は順調に進んでいますか。」
 「桜島の噴火が七月にあって、その影響で日照りが少なかった。」
 「アラト様、確かに桜島の噴火は堪えましたね。大淀川の水質には影響なかったですか。」
 「今年の春先に、例年に比べて、雨がかなり降ったので、大丈夫でした。」
 「アギシ様の集落は、どうでした。」
 「今年は、阿蘇山の噴火もなく、日照り続きで豊作でした。」
 「そうですか。それでは、豊の国も豊作だったのですね。」
 「豊の国の宇佐の集落では、八幡神に稲穂を奉納する祭りがあります。」
 豊の国では、八幡神は元々農業神として祀られていました。記紀には、イザナキが我が子、アマテラスに高天の原、ツクヨミに夜の食国、スサノヲに海原を治めるようにと、仰せになったが、スサノヲが海原を治めるのを嫌がって、根の堅州の国に行きたいと言って、アマテラスの高天の原で泣き喚いていた。そこで、アマテラスがスサノヲの心の清らかさを諮るのに、ウケヒをすることになり、スサノヲの十拳の剣を取り上げて、口の中に入れ、噛み砕いて、噴出した時に生まれたのがタギリビメ(オキツシマヒメ)、イチキシマヒメ(サヨリビメ)、タキツヒメの女神が誕生した。そして、スサノヲはアマテラスの八尺の勾玉を砕いて、吐き出したのがイハレビコの祖先神アサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ、アメノホヒ、アマツヒコネイクツヒコネ、クマノクスヒである。
 この三女神は、豊の国の宇佐嶋(御許山)に降り立ったとあり、宇佐で八幡神として祀られている他、宗像三女神(むなかたさんじょじん)とも言い、玄海灘の航海を守ってくれる神である。また、朝鮮半島の南方の済州島の神話に、済州島の祖先神(高、梁、夫の兄弟)が東国(日本)から、木の箱が流れてきて、開けてみると、三女神と馬が入っていた。そして、済州島の神はその女神と結ばれた。この三女神が宗像三女神だと言う。
 八幡神と名づけられたのは、神功皇后の三韓征伐で、対馬に寄った時に、八本の旗を掲げて、三女神に帰依した事や応神天皇の御魂の一部を宇佐神宮に供えた時に、八本の旗を掲げた事から来ている。
 「さて、新嘗祭の準備だが、式典の用意はコナキネ様にお願いします。今年は、広渡のヤコメ様の集落で行いたいと思います。依存はないですか。」
 「大君、他に何かございませんか。」
 「新嘗祭は、一年の行事の中で、一番大事な祭事なので、みんな協力して行ってください。それから、豊の国の話が出たが、ウサツヒコ大君から豊作を祝う祭事の招待状が来ている。イハレビコを行かせようと思うが、異議はないか。」
 「異議なし。」
 新嘗祭の打ち合わせが終わり、皆が退席した後、大君がイハレビコを呼び止めた。
 「イハレビコ、豊の国のウサツヒコ大君にお会いした後、筑紫の国に行って、娜国の状況を探ってきてくれないか。」
 「分かりました。ミチノオミとオホクメを連れて行ってきます。」
 イハレビコは、豊の国のウサツヒコやウサツヒメに合うのを楽しみに、ミチノオミとオホクメを引き連れて馬に乗り、稲刈りをタジロとヒカメに任せて、庄内の集落を後にした。
 「若、これから、先ずは豊の国のワタツミ様まで行かれるのですか。」
 「お爺様にお会いして、足一騰宮の状況をお聞きしようと思う。」
 「それでしたら、海岸沿いに馬を走らせ、五十鈴の集落のカラヤ様の所で一泊しましょう。」
 五十鈴川付近(宮崎県東臼杵郡門川町)のカラヤの集落は、日向の国でも、有数の田園地帯で、米の収穫は日向の国のトップクラスでした。カラヤの部族は、イハレビコの祖先で、中国の越の国から渡って来たオオヒルメの部族の末柄で、イハレビコの部族が山麓で稲作をしているのに対して、最新の土木工事も含めて、水田作りから、脱穀技術まで優れていた。しかし、軍事力については、イハレビコの部族に頼らなければならなかった。この五十鈴の集落の海岸線上に浮かぶ枇榔島(びろうじま)は、神武天皇の軍船が枇榔島付近でくじらを仕留めようとした時、そのくじらが美女に変身したと言う伝説がある。
 イハレビコ達は、五十鈴川下流に着き、馬上から西の山並みや東の海岸線を眺めた。
 「ミチノオミ、この西北の山の向こうにアギシ様の集落があり、その向こうに阿蘇山があるのだ。」
 「阿蘇山の西には、肥の国がありますね。そして、阿蘇山の南、丁度、西の山の向こうに国見岳があります。その山録には硬い鉱石(ヒスイ)が取れると言われています。」
 「タシトからも聞いたことがある。」
 イハレビコは西の山並みを見ながら、鉄鉱石の事を考えていた。アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズ大君が亡くなってから、高千穂の宮をアジキの集落に移し、本格的に鉄鉱石の採取と製鉄に取り組んでいく。そして、五十鈴川の下流の門川湾に軍船を浮かべる事になる。
 「若、よく来られた。どうぞお入りください。居間に食事を用意しています。」
 「カラヤ様、稲穂がよく茂っていますね。今年も、豊作のようですね。」
 「この辺りは、日照りもよく、水源も豊富で、土壌もよいですからね。」
 「田を耕すのに、何を使っていますか。」
 「裏山の向こうに国見岳がありまして、そこで、硬い石がとれるので、その石を鍬等に使っています。」
 「やはり、国見岳か。」
 イハレビコ達は、早朝、門川湾からの日の出を見ながら、カラヤの集落を出発し、ワタツミのいる臼杵の集落に向かった。そして、五ヶ瀬川を渡った頃、イハレビコは回りを見渡した。
 「ミチノオミ、この辺り、まだ、稲穂が少ないではないか。」
 「土を耕し、水路を整備すれば、よき水田になるでしょうね。豊の国にも近いし。」
 「高千穂の宮に帰ったら、大君に進言しよう。」
 イハレビコ達が立ち止まった場所は、現在の宮崎県延岡市付近で、五百七十年に欽明天皇が田部宿禰直亥に宇佐神宮(宇佐八幡宮)を造営する様に命じ、この地は宇佐神宮の領土になり、田部宿禰直亥の子孫土持氏が管理することになった。
 宇佐神宮のもとは、やはり、ウサツヒコとウサツヒメになる訳であるが、宇佐神宮には応神天皇、比咩大神(比売神)、神功皇后を祀られている。そして、皇室の奉斎で伊勢神宮の次に、宇佐神宮が上げられている。なぜ、宇佐神宮なのだろうか。また、応神天皇や神功皇后が祀られているのだろう。
 比咩大神は、スサノヲとアマテラスのウケヒによって生まれた三女神である事になっているが、古事記のホムダワケ(応神天皇)の章で、アメノヒボシとアカルヒメの話がある。アメノヒボシは、新羅の王室の昔(そく)氏の王子で、赤い玉から生まれかわったアカルヒメを妻にするのですが、アメノヒボシが妻を罵ったため、アカルヒメは祖国、難波に帰ってしまった。そこで、アメノヒボシはアカルヒメを追って、難波の津まで来たが、嵐に遭い、多遅摩(但馬)の国に留まった。そして、タヂマノマタヲの娘マヘツミを妻にする。その子孫にカズラキノタカヌカヒメがいる。このヒメとヒコイマスの曾孫オキナガノスクネの娘がオキナガタラヒメ(神功皇后)となり、オキナガタラヒメとタラシナカツヒコの子ホムダワケ(応神天皇)である。アカルヒメは、難波の比売碁曾の社(大阪市東成区東小橋三丁目の比売許曾神社と言われている)に。この比売許曾神社に祀られているのが、スサノヲとアマテラスのウケヒによって生まれたタキリビメとオホクニヌシの娘シタデルヒメである。この様な流れを見ていくと、宇佐神宮の祭神が繋がってくる。
 アメノヒボコは、垂仁天皇の時代に新羅の王子として渡来したとなっているが、実際のところ定かでない。朝鮮半島では、紀元前二世紀の頃に辰国が倒れ、朝鮮半島の南半分は三韓時代になるのだが、アメノヒボシの昔氏の部族は、辰国の鉄器技術を引き継ぎ、弁韓付近で優れた鉄製造技術を持ち、稲作に従事していた。一世紀頃、昔氏の祖、昔脱解は朴南解の娘阿孝夫人を妻にし、朴南解の子朴儒理の後をついで、新羅の王となった。
 昔脱解の生誕の説話には、日本の多婆那の国(魏志倭人伝に記載されている邪馬台国に行く途中の国)の大君の娘が七年間も妊娠して、生んだのが大きな卵で、不吉だと言って、絹の布で巻いて、箱に入れ、海に流した。その箱が、伽耶に流れ着いた。しかし、伽耶の人は不気味な箱であるので、開けずに海に流した。その箱が辰韓の阿珍浦に流れついて、老婆が箱を開けると大きな男の子が現われた。その男の子が昔脱解だという説話。
 この様に、アメノヒボシが誰であったかは限定できないにしろ、昔脱解が倭人であったにしろ、日本の古代人、倭人と関係があり、おそらく、朝鮮の弁韓地方の民族と倭人とは、交流があったと考えられる。この昔氏の部族が、日本の丹波地方だけでなく、東北地方まで移住していたことも囁かれている。


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