第1部 草薙の剣  第3章 旅立ち(2)
 
 ワタツミの豊の国では、筑紫の国と交流があり、大陸からの物資や文化が筑紫の国から入ってきていた。また、筑紫の国では、壱岐の島から対馬に渡り、韓の国(朝鮮半島)に上陸し、集落を形成していた。その後、韓の国の南端に任那の国を建国したぐらいである。イハレビコの時代には、この韓の国の集落を基点に馬韓(のちの百済)、辰韓(のちの新羅)、高句麗の三国との交流が盛んであった。その当時の日本の力は、韓の国をしのぐ政治力、軍事力、財力を備えていたようである。後世に神功皇后が朝鮮を攻めた話は有名である。しかし、邪馬台国の卑弥呼の時代の魏の歴史書(魏史倭人伝)では、日本のことを倭の国としているが、イハレビコの時代には、日本の国は統一国家でなく、各地に分裂した国の形態であった。
 剣については、その当時大陸からの輸入か、山陰地方で取れる鉄鉱石で作られたものが有名であり、なかなか手に入らない品物であった。また、剣は天皇家の証、三種の神器(草薙の剣、鏡、勾玉)の一つでもある。神話では、スサノヲがヤマタノヲロチを退治した時のヲロチの尻尾から草薙の剣を取り出したという剣であり、ヤマトタケルが東の国(蝦夷)に遠征した時に伊勢斎宮にいる叔母のヤマトヒメを訪ね、伊勢神宮に奉納されていた草薙の剣を授かった剣である。草薙の剣は、垂仁天皇が伊勢神宮に奉納したという説があるが、いつごろから存在したのかというと定かでない。本書では草薙の剣は、イハレビコが皇祖神アマテラス大御神を祀る伊勢神宮に奉納したことにする。
 この他に剣についての神話として、アマテラスの孫で、アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギと言うイハレビコの曾祖父が、最初に高天の原から地上の日向の高千穂に降りた時に出迎えたアメノオシヒとアマツクメの神で、大きな瘤付きの帯刀と鋭く磨いた矢と弓を持って現れる。この帯刀も剣である。なお、アメノオシヒはヨホトネやタシトの祖先神で、その家来としてアマツクメは久米部族の祖先神であり、これらの神の子孫が大伴氏の氏族として発展していく。
 初夏のある日、ワタツミはウサツヒコとの合議に参加するため、イハレビコとタシトをともにして、ワタツミの集落を出発した。
 小高い山間を通ると壮大な田園地帯が広がり、その地帯に流れる大野川と大分川が望めた。そこには数か所の集落があり、豊の国の豊かさを象徴する風景であった。これらの集落を通って、大野川と大分川を渡って、海岸沿いに行くと地面から温かな湯が沸きあがっている所に着いた。現在の別府温泉である。昔から日本の各地に温泉があり、日本人が現在でもお風呂好きであるのも納得がいく。イハレビコ達は、この温泉がある集落で宿をとることにした。翌朝、山間を抜けると、水の恵みに満ちた駅館川が流れ、その川に沿ってたんぽぽが咲き、川沿いを行くと、堀と擁壁で囲まれ、中央に聳え立つ足一騰宮が見え、一つの集落と言うよりは要塞という感じであった。
 ワタツミに案内されて場内に入ると、中央に広い道があり、その道の突き当たりに高々と聳え立つ宮殿があった。地上から階段があり、上がりきるとこの要塞全域が見渡され、宮殿に入ると広々とした居間が四部屋あった。ここに、ウサツヒコとウサツヒメが生活されておられた。ワタツミはウサツヒコと面会されるので、玄関先の居間で待機するとのことであった。イハレビコ達は、面会が終わるまで、宮殿を出て足一騰宮をぶらりと探索することにした。
 「タシト、宮殿の華やかさには感服したな。それにしても、この宮の賑やかさにも驚かされる。会う人会う人が活気に満ち、優雅で裕福そうである。」
 「若、わたしはこの宮が敵に攻められたとしても容易に攻め落とせないように造られているのに感心しました。堀にしろ、擁壁にしろ、戴したものですし、宮殿に上がると東西南北が見渡せます。」
 足一騰宮の場内では、豊の国の集落の特産物が持ち込まれ、物々交換している光景が見られた。米はもちろん野菜、魚介類、畜産類、陶器類、衣類、なかには他国からの珍しい品物も見受けられることもあった。畜産類では、狩猟による猪や鳥の肉もあったが、その当時は犬や鶏が家畜されていたようで鶏肉もあった。陶器では、すでに弥生時代の後期でもあるので、壺はもちろんのこと茶碗や湯のみもあった。衣類では、蚕が飼われている国もあり、蚕の糸の生地で作られた衣服があり、韓の国からの使者が足一騰宮に参上したさいの土産としてもたらされた衣服もあった。他国からの品物では、鉄で加工された剣や矢尻や青銅で加工された鏡等の品物もたまには見られた。
 「若、日も落ちてきたので、ワタツミ様の別宅に帰りましょうか。」
 イハレビコ達が別宅に着いた時には、ワタツミも帰ってきていて、玄関まで向かいに出て来ていた。
 「お爺様、宮殿といい、場内での人の往来といい、感服いたしました。」
 「まあ、入られよ。宮殿で二日程所用を済ませるので、ここでゆっくりされよ。また、それから、筑紫の国のナキカツヒコのところに連れてやるのでのう。」
 「ありがとうございます。」
 ナキカツヒコの集落は、筑紫の国でも関門海峡の沿岸(福岡県北九州市小倉北区付近)にあり、海を隔てた周防の国が見えるところにあった。また、海を渡って、周防の国や安芸の国の物資と文化が入ってき、筑紫の岡田の宮(遠賀川の下流付近)と筑紫の訶志比の宮(大宰府の北側で福岡市東区香椎付近)からは、対馬、壱岐の島を渡って来た馬韓や辰韓の渡来人が物資や文化をもたらしていた。
なお、古事記によると岡田の宮は、イハレビコが大和朝廷を樹立するために東の倭の国に行くまでに、筑紫の国で一年余り滞在した宮であるが、訶志比の宮は、古事記では仲哀天皇が九州に制圧軍を送った時に、筑紫の国に宮を住居にしたとあるが、本書ではイハレビコの時代にすでにあったと仮定する。
 「お爺様、宮殿での所要がお済になられましたか。」
 「秋の稲作の収穫祈願の打ち合わせをしておった。今年は、雨も降り、日照りも続きそうなので、嵐が来なければ豊作になるだろう。そのための新嘗祭での祈祷についての話し合いだ。漸く終わったわい。」
 「それは、ご苦労さまでした。」
 「明日の早朝に、駅館川下流から船に乗って、ナキカツヒコの集落まで行こう。」
 イハレビコとタシトは、船旅が初めてで、その当時の船としては、丸太を削ったもので、大きさは現在の五人乗りのカヌーのようなものであった。ワタツミは駅館川下流の漁師の集落に行き、船を用意した。
 「イハレビコ君、東に見えるのが伊予の国で、北に見えるのが周防の国です。これから、豊の国の沿岸を航海すると、筑紫の国の沿岸になり、海流の流れが激しい海峡を通ります。そして、ナキカツヒコの集落に着くのう。」
 「お爺様、我が国日向では航海術が苦手で、いざ海での戦闘になると苦戦しています。山河での戦闘には自信がありますが。」
 「豊の国では、戦闘をすることは重要ではあるが、国を治めるには戦闘をしなくても知的戦略で国を栄える方法があると考えている。戦闘だけが国力を高めるものではない。」
 「航海術を学ぶには、どの国へ行けばよいですか。」
 「筑紫の国は、大陸まで行くのに航海術を備え、イキの島、ツの島に渡り、韓の国の南端弁韓に集落を作って、高句麗や辰韓、馬韓を掌握している国だし。航海術としては筑紫の国がよいし。海での戦闘となると、安芸の国は伊予の国と海の領域を争って絶えず戦闘を繰り返している。安芸の国がよいかな。」
 イハレビコは、ワタツミに航海術のこと等を聞きながら、船旅を楽しんでいた。


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