時刻 現代、何となく年月日や日時を使用して生活しています。朝日が上がり、太陽が沈むまでを昼。日が沈んでから朝日が昇るまでを夜。1日が24時間で区切られ、1時間は60分。当たり前ですね。このような決まり事は、江戸時代の幕府が明治新政府に倒幕され、明治政府が明治5年12月3日を明治6年1月1日として、明治5年太政官布告第337号、改暦ノ布告を発令して、西洋のグレゴリオ暦を採用した。ここから、何年何月何日何時何分という言い方がはじまった。それまでは、年は十干十二支で、60年周期。時刻は、2時間でひとつの干支で、1日を12に。よく言われる「草木の眠る丑三つ時」は、丑の刻、1時から3時までで、三つ時だから、この2時間を四等分。だから、2時から2時半の間となる。その当時は、分刻みはなかったかも知れませんが、60分ですから十干十支であらわせたでしょう。
 日本では、年月日や日時を表す手段として十干十二支を今から1,500年前から明治時代まで使っていました。欽明天皇の時代に中国から仏教と共に暦が入ってきてからですね。では、それ以前は。日本に考古学的にも民族学的にも資料がないので、なんとも言えませんが、欽明天皇以前から稲作はされていた訳で、暦ほどではないですが太陽の動き、月の欠け具合、夜空の星の動きなど注意深く観察していたと推測されます。また、欽明天皇以前、中国から渡ってきた人達もいたはずです。
 欽明天皇時代に、仏教の経典や儒教の注釈書、そして暦も百済から中国の僧や天文学者が日本に。この頃の中国は、南北朝時代で北朝にしても南朝にしても政権が目まぐるしく変わった時代。この時代、戦国時代にできた老荘思想が流行ったようです。特に北朝の北魏で、その後、東魏と西魏に分かれる。その頃、南朝の梁では仏教を保護していた。梁は502年から557年ですから、丁度、継体天皇(在位:507年~531年)・欽明天皇時代(在位:539年~571年)に重なる。その頃、日本は南朝の梁と交渉をしていた。北朝の北魏ではなかったのです。梁が滅亡して、仏教徒は東魏を頼らず、百済に流れ、百済から日本に。
西魏・東魏・梁
 儒教や道教等の中国思想は、国を治めるための思想で、儒教が国教となり、形骸化が進む中、道教は君主が天道に背く君主の勝手な行動をとることを禁じ、また秩序維持のために社会に過度に干渉することは避け、さらに統治にかかるコストを下げるべきだとする考え方で、儒教が官僚に人気があるのに対して、道教は、君主が天道に背く君主の勝手な行動をとることを禁じ、また秩序維持のために社会に過度に干渉することは避け、さらに統治にかかるコストを下げるべきだと言う考え方で、庶民に人気があった。そして、秦の始皇帝が不老不死の名薬を探すため、日本に派遣した徐福の集団のものの考え方、神仙思想と結び付いてきます。南朝の梁の時代の文学理論家劉勰著『滅惑論』では、「道教三品」として、上:老子、次:神仙、下:張陵(五斗米道の祖)となっている。老子は、河南省周口市出身で紀元500年ころの人、徐福は江蘇省連雲港市出身で紀元前200年頃の人、張陵は江蘇省豊県で徐州市に近く150年頃の人。この老子・徐福・張陵とも稲作が発展した地区の出身で、多分、年代は違うが日本に稲作を伝えた地域の人。すなわち、「宇宙と人生の根源的な不滅の真理を唱えた道教」と「道教に近い考え方(例えば、禅宗の無の世界)の仏教」その教えが根底にある人達が日本に渡ってきた。この当時の道教の考え方と仏教を取り入れた日本人、道教の考え方が時代と共に変貌し、その変容した道教を取り入れた現在の中国政府、朝鮮半島の北部から時代によって変化した儒教が入って、形骸化した儒教の教えが浸透している韓国人。中国人も韓国人も日本人も発想当時の中国思想は同じですが、時代の流れと中国思想を取り入れた時期の違いとそれ以後のこれらの国で、中国思想の咀嚼の違いから日本人、中国人、韓国人のものの考え方が違うようになったと思います。
2019年1月5日

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