今上天皇陛下が2019年5月に退位されて、新しい年号に変わりますね。そして、崩御後、平成天皇となられます。今上天皇陛下が在位していた時代の年号を天皇陛下の諡にされる。これも明治時代になって、明治政府は中国の明・清王朝で実施されていた一世一元制を採用して、慶長4年を明治元年とし、一世一元の詔(太乙を体して位に登り、景命を膺けて以て元を改む。洵に聖代の典型にして、万世の標準なり。朕、否徳と雖も、幸に祖宗の霊に頼り、祇みて鴻緒を承け、躬万機の政を親す。乃ち元を改めて、海内の億兆と与に、更始一新せむと欲す。其れ慶応四年を改めて、明治元年と為す。今より以後、旧制を革易し、一世一元、以て永式と為す。主者施行せよ。)を発令してからです。それ以前は、災難や疫病がはやった時に、年号を替えって、平穏安堵を願った。現在天皇陛下を今上と言う漢字を使用して、過去の天皇と区別していますが、この今上という言い方は大和言葉の「いまのうへ」から漢字として使用されたようです。また、今上という言い方も江戸時代の国学者、賀茂真淵・本居宣長等が唱えてからのことだと思います。現代では、今上天皇のことを「陛下」とか、ただの「天皇」とかで呼んでいますが、この言い方も明治時代以降。それまでは、「帝」とか「天子さま」と呼んでいたそうです。
年号一覧
十干十二支_1 年号は、私達の雲の上の人、天皇に関わってきたのですね。日本で最初の年号は「大化」ですから、飛鳥時代に中国の漢王朝の武帝が始めた年号を日本でも見習ったようです。女帝の皇極天皇から使われました。専制君主制を敷いていた大和朝廷の事務的な処理から始まった。それまでは、十干十二支で年数を数え、年齢等を表示していました。十干十二支が日本に入ってきたのは定かではないですが、古墳時代の初期から中期に中国から百済経由で日本に入ってきたと思われます。埼玉県行田市埼玉の埼玉古墳群の一つ、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣には「辛亥年七月中記」の紀年があり、銘中「獲加多支鹵金錯銘鉄剣_1(わかたける)大王」は雄略天皇だとすると、5世紀の中程には十干十二支が存在していたことになります。また、白鳳時代に編纂された『古事記』にしても『日本書紀』でもその当時の天皇の即位は、十干十二支で記載されています。古くから使われていた十干十二支ではありますが、一般庶民はこの十干十二支を江戸時代まで使用しました。皇極天皇以前の年号表記はなく、60年周期で回っている十干十二支で計算されていた。大和朝廷の事務的な問題で暦が必要になってきた。ヤマト王権の朝鮮半島の拠点、任那が新羅によって滅亡した頃(562年)。欽明天皇の頃に任那の残党が百済から帰国して、太陽太陰暦を持ち込んだ。この暦は、山東省出身で南北朝時代の宋に仕えた天文学者、何承天が考案した元嘉暦で、中国では445年から509年まで使用された。その暦を百済から554年に伝えた。仏教公伝と時期的に近い。任那と百済の交流は深く、欽明天皇以後、ヤマト王権と百済の同盟関係が続き、百済から仏教や暦など、現在の日本文化の礎を成した。
 欽明天皇以後、太陽太陰暦は元嘉暦から始まり、飛鳥時代から奈良時代まで、儀鳳暦を使用した後、遣唐使が持ち込んだ唐の暦、大衍暦、五紀暦、宣明暦を。その後、遣唐使が廃止されたことによって、平安時代前期の清和天皇より、宣明暦を使用してから江戸時代の将軍、徳川綱吉まで823年間という長期にわたって旧暦表示で、西暦との関係はユリウス暦で表示されていた。平安時代から西洋の西暦が日本でも認識されていたことになりますね。江戸時代になって、オランダから西洋文化が入ってきて、今まで使用していたユリウス暦とその当貞享暦時主流になっていたグレゴリオ暦(現在の西暦)とのずれが生じ、その当時の天文暦学者の渋川春海によって、貞享暦が発案され、和暦の日付は旧暦(十干十二支)、西暦の日付はグレゴリオ暦となった。それ以後、宝暦暦、寛政暦、天保暦を経て、明治時代になって、新暦、グレゴリオ暦が採用されるようになった。明治政府は、年号一元制とともに西暦を奨励したのですね。でも、旧暦(十干十二支)は一般庶民にはまだまだ親しまれ、明治、大正、戦前の昭和時代まで使われていたようです。現在では、年号と西暦の併用が普通ですけれどね。
2018年12月29日

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