三ツ塚古墳出土_修羅 クリスマスの時期になると雪景色の中、トナカイに引かれたソリに乗ってサンタクロースがやって来ます。現在では、スポーツカーに乗ったサンタクロースの演出もありますね。ソリは、雪国で運搬用として使われているものだと思っていました。それが古墳時代にも存在した。
トラック 1978年に藤井寺市の三ッ塚古墳の周濠底から大小2つの木製のソリが発見されました。大型のソリは全長が8.8メートルもあり、小型のソリは全長2.9メートル。先端に主綱を通す横穴があったり、大型には2本の足の側縁に各6ヶ所に斜め穴をあけ、荷綱を通したり、引き綱をとめる施設に使われていたようです。また、テコ棒も発見されています。現在の大型トラックと同じぐらいの大きさですね。
仁徳天皇御陵古墳の埴輪調査 昔、この地域を河内と言われ、倭の五王の時代、4世紀末期から5世紀の頃に大型の前方後円墳が造営されました。2011年には、大阪府、堺市、羽曳野市、藤井寺市の知事と3市長をトップとした「百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議」が設立され、ユネスコ世界遺産センターに世界文化遺産登録の早期実現をめざして運動を展開している地域です。その運動の一環として、宮内庁は堺市とタイアップして大仙御陵(仁徳天皇御陵古墳)の埴輪調査を2018年10月下旬から11月にかけて行われました。そして、2018年11月22日に調査結果が発表され、埴輪は5世紀前半~中頃の特徴を持った円筒埴輪だったようです。埴輪の底には石が敷かれ、直径約35センチの大きな円筒埴輪を発見したそうです。墳丘を囲む堀の堤の距離が約2.6㎞にこの円筒埴輪が7,000本も眠っているそうです。
円筒埴輪  これらの埴輪は円筒埴輪数本に対して朝顔型埴輪が1本の割合で配置され、お供え物の土器を置くようになっていて、収穫された米で作った酒や新米で作った粥を壺に入れ、さまざまな形の器台に収穫物を載せ、神を招き、神の前で、ともに飲食し、神に収穫の感謝や願いごとをした祭典の道具が円筒埴輪に変化した。この特殊器台は、3世紀後半に吉備地方で発生したようです。4世紀後半になって吉備の須恵器の職人が河内地方に集結します。藤井寺市の誉田御廟山古墳(応神天皇御陵)付近の菅原道真が建立した道明寺辺り、現在「土師の里」と言われているところに集結して、土師部という土器を生産する部ができ、須恵器や祭典に使用する土師器を生産した。この土師の里遺跡から土器を焼くための焼成抗も発見されています。ここで、百舌鳥古墳群と古市古墳群の埴輪を生産したのですね。埴輪の底に敷かれた石は、この土師の里から東方に二上山があり、そこから採取されたようです。
百舌鳥・古市古墳群地図
 古墳の祭典に使用する埴輪と石を運ぶ必要が出てきます。それで、土師部の人たちは海人系の人たちだった古代のソリので、舟を作る技術も持っていたので、堅い樫の木から舟のようなソリを作ったのです。そして、収穫した稲の藁で縄を組み、そのソリに縄を括り付け、テコ棒を使って、大勢で引っ張った。現在の綱引きの原型ですね。綱引きはその当時から神事として扱われていました。最初に神事にしたのは、仁徳天皇の時代に疫病がはやり、その祈祷をするために創建されたと言われている大阪市浪速区の難波八坂神社だとされています。石材職人でもあった土師部の人たちは、大きな石棺もこのソリで運んだのでしょう。また、綱の弾き手も現在のお相撲さんクラスの人がいたのですね。生産した埴輪や石を土師の里から、10数㎞離れた仁徳天皇御陵古墳まで運ぶのですから。
綱引き神事 この土師部の人たちが平安時代までこの地に永住し、土師氏をなのることになった。この土師氏から分家したのが菅原氏で、平安時代の菅原道真もこの地の出身です。この地の道明寺(土師寺)に隣接して道明寺天満宮もありますから。また、飛鳥時代になって、土師部が土師氏と名乗るようになり、『古事記』や『日本書紀』の編纂にあたって、土師氏の祖先をアメノホヒ(アマテラ道明寺天満宮スの子として出雲に最初に降り立った神)とし、その末裔で相撲の祖と言われ、垂仁天皇記に出てくる野見宿禰とされています。二上山の麓を領地にしていた当麻蹴速と相撲を取り、打ち破った。そして、当麻蹴速の領地である土師の里の領地を奪いとった。記紀ではこのようになっていますが、神話の世界での話なので、実際はどうだかわからない。土師部の人たちは、大きな岩を運ぶのにソリを使い、力持ちがソリを引っ張る。そんな力持ちを祖先に持っているのだと言うことで、野見宿禰の話が出てきたと思われます。
 現在、土師部が使用していたソリを修羅と漢字で表していますが、仁徳天皇の時代からこの漢字が使われていたのではなく、日本に仏教が入ってきてからで、大石をタイシャクと読み、それを帝釈天に引っ掛け、帝釈天を動かせるものは阿修羅すなわち修羅であると語呂合わせからきたものとされている。帝釈天が日本に伝わったのが、飛鳥時代で帝釈天が普及したのが奈良時代から平安時代前期だとすると、ソリを修羅と書かれるようになったのは平安時代以降ではないかと思われます。また、ソリという音声は、やはり中国の上海を中心とした呉語からきているようです。すなわち、土師部の人たちも中国の浙江省あたりから朝鮮半島経由で日本にやってきた渡来人だと思われます。
2018年12月10日

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