日本人の主食は、昔から米ですね。この米はジャポニカ米と言われ、この紀元は15,000年程前、氷河時代の末期、日本がまだ陸続きの頃に今の東南アジアにあったスンダランドに生育していた熱帯ジャポニカ米です。スンダランドは、紀元前12,000年から紀元前4,000年の間に沈没し、現在のタイランド湾から南シナ海に渡る大陸棚に相当する。スンダランドが存在していた頃、黒潮海流は沖縄諸島より東側を流れていました。スンダランドから北で中国大陸と沖縄諸島の間で北側は日本の九州辺りの海域が優良の漁業場だったようです。
縄文文化前の人類の移動
 湿地帯の多いスンダランドでは、紀元前12,000年前までに熱帯ジャポニカ米が栽培されていた可能性があります。現在、最古の熱帯ジャポニカ米は、紀元前8,000年前の浙江省の上山遺跡とされています。その熱帯ジャポニカ米が海を渡って北上します。日本にも岡山県の朝寝鼻遺跡から紀元前4,400年の稲のプラントオパ-ル湿地帯でのイネ科が発見されていますが、非公式では、鹿児島県の遺跡で紀元前10,000年前の稲のプラントオパ-ルが薩摩火山灰の下から発見されています。縄文時代初期のジャポニカ米はそのスンダランドから来たものだと思われます。スンダランドが沈没し、この熱帯ジャポニカ米をもって船に乗り、北上。そして、山から流れてくる砂が川によって運ばれ、海岸付近には湿地帯が多かったのでしょう。九州の海岸線に自然にできた水田で稲を植えた。鹿児島県で稲のプラントオパ-ルが発見されても不思議ではありませんね。
 スンダランドから持ち込まれた熱帯ジャポニカ米は、中国江南地方で改良されて温帯ジャポニカ米が完成しました。そして、揚子江周辺に広がり、中国の浙江省の河姆渡文化(紀元前5,000年~紀元前4,500年)や中国の江蘇省の馬家浜文化(紀元前5,000年~紀元前4,000年)で構築された稲作の文化が紀元前縄文後期(紀元前2,000年頃~紀元前1,000年頃)に始まる地球の寒冷化によって、これらの文化を持っていた農耕漁狩民は、日本の九州に移住し温帯ジャポニカ米を伝えた。その頃日本では、バルカン湖周辺にいた人達が南下して東北の三内丸山を拠点に集落を持っていた縄文人もその寒さによって、食料を求めて近畿地方まで南下してきた。そして、以前からあった熱帯ジャポニカ米を栽培していくわけですが、そこに中国江南地方の農耕漁狩民がもたらした温帯ジャポニカ米を取り入れ改良していく。そして、北から来た縄文人と中国江南地方の農耕漁狩民とが交わっていった。紀元前400年頃には、北から来た縄文人と中国江南地方の農耕漁狩民が同化し、近畿地方では大きな村落ができていた。現在日本人の祖先ですね。
下之郷遺跡の大環濠 その頃の大きな村落の例として。1980年に下水道工事のときに縄文時代の遺跡から弥生前期・中期・後期の遺跡が野洲川流域で発見され、それらの遺跡の中で、滋賀県守山市下之郷町の下之郷遺跡には、環濠や井戸の深いところには、当時の動植物遺体がたくさん埋もれ、稲籾や籾殻が見つかっています。環濠や井戸跡を発掘すると稲籾や籾殻がみつかりました。井戸の中に堆積した土を水洗、黄色いままの籾殻、黒くなった稲籾があったほか、真っ黒になった米粒が固まった状態のものが発見されました。米粒の一部をDNA鑑定行ったとこ炭化していない籾ろ、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカがあり、しかもそれらは複数の品種があったことがわかりました。これまで稲作は、温帯ジャポニカが中国~朝鮮経由で伝わったと考えられていました。炭化していない籾が発見されたことにより、DNA鑑定が可能となり、東南アジアから海を渡って熱帯ジャポニカが伝わってくるルートがあったと考えられます。
 下之郷遺跡の集落は、3重の環濠があり、さらにその外周に数条の大濠が巡らされています。3重の環濠に囲まれる集落の規模は、東西330m、南北260m、面積はおよそ7haにおよびます。集落の西側で発見された3条の環濠は、いずれも幅5m、深さ1.5mほどで、当時は水をたたえていたことでしょう。環濠のふちには柱の並ぶ場所があり、これらは、集落内に外敵が容易に侵入できないように 設けられた柵の痕跡。第1環濠では、一度掘った環濠に、幅3mほどの土を埋めて出入口(陸橋)が見つかり、この出入り口周辺からは、打製や磨製の石鏃、焼け焦げた弓、石剣、折れた銅剣など、戦いに使われた武器がたくさん発見された。集落というよりは全くの国ですね。
下之郷遺跡の集落跡
2018年12月2日

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