現在の明仁天皇陛下は2019年4月30日で退位されて、諡号が平成天皇となられ、天皇家としては第125代の天皇となられます。世界でも、国の王として125代も続いている国は日本だけですね。初代神武天皇は、『古事記』や『日本書紀』によると辛酉年1月1日に橿原宮で即位してとなっています。明治時代の学者、那珂通世は、神武天皇の即位の年代について、推古天皇9年(601年)から遡って1,260年前、紀元前660年と唱え、戦前まで紀元2600年記念式典の政府は、神武天皇即位紀元の元年と制定し、皇紀を採用した。現在の西暦2018年は皇紀2678年に当たります。1940年11月11日には、橿原神宮で紀元2600年記念式典が行われたりしました。この式典の前、1938年に末永雅雄の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、その地下から縄文時代後期~晩期の大集落跡と橿の巨木が立ち木のまま16平方メートルにも根を広げて埋まっていたのを発見。その橿の巨木をアメリカのミシガン大学に持ち込み、炭素14による年代測定をすると、当時から橿原神宮2,600年前のものであることが判明。それを根拠に神武天皇が紀元前660年に即位したとした。この根拠は、現在の研究からもあり得ない年代ですね。天皇という諡号も、大宝律令で法制化される直前の天武天皇または持統天皇の時代とされ、神武天皇から奈良時代の元正天皇までの名称は、大友皇子の曽孫、淡海三船が名付けた。それまでの天皇は、「すめらみこと」と呼ばれていた。この「すめらみこと」は、明治天皇以前まで天皇のことをこのように呼ばれていた。「すめら」の言語は、古代の訓読み言語で天武・持統天皇時代に漢字として「天皇」とし、「すめらみこと」と読んでいました。その当時、一般的には天皇のことを「オオキミ」と言い、天皇が政権を失った鎌倉時代頃からは「ミカド」と呼んでいたのでしょう。
 神武天皇からの天皇家は、父系家族制で紀元前660年から永遠と続いていたのでしょうか。丁度その頃、日本の佐賀県の唐津地方・吉野ヶ里丘陵や福岡県の博多・早良地域に水田式稲作が中国から入って来た時代。その稲作集落の家族制度は、集落で田んぼを所有している主は、働き手として男性を必要とし、その男性を確保するために、娘の婚姻を望んだ。招婿婚ですね。現在では一夫一婦制ですが、その当時は多夫多婦制のようなところがあって、「ヨバヒ」ですね。夜になると働き手として男性が田んぼを所有している主の娘のところに侵入して、セックスをし、女が許せばその場で結婚が成立。娘が拒否し、また違う男性と交わる。そして、生まれた子は、娘が認めた男性を父とした。場合によれば、田んぼを所有している主が田んぼの跡継ぎと定める場合もあったらしい。女系社会だったのです。そんな母系家族制の時代に天皇家は父系家族制であるわけがありませんね。招婿婚は、早くても古墳時代まで続きます。平安時代の紫式部の『源氏物語』でもそんなシーンがあるように、藤原氏が摂政を行うためにミカドに娘を差し出し、政権を維持したのも招婿婚のなごりだと思います。
 古墳時代までは祭政一致が行われ、政治を行うことを「まつりごと」と言った。元々は「祭り」から、「政」となった。「祭り」は女性が巫女として祈祷することですから、女系社会では集落の運営において、女性が巫女になって決めていた。『日本書紀』巻第五崇神天皇紀によると、「国中で災害が多いので天皇が八百万の神々を神浅茅原に集めて占うと、大物主神が倭迹迹日百襲姫命に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げたという」とあ太占り、占いは亀卜で日本では亀の代わりに牡鹿の肩甲骨を使った太占で。倭迹迹日百襲姫命は、第7代孝霊天皇と、妃の倭国香媛との間に生まれた皇女で、大物主神(三輪山の神、大神神社祭神)の妻となったと言われ、箸墓古墳に埋葬されているという。また、倭迹迹日百襲姫命は邪馬台国の卑弥呼ではないかとも言われている巫女です。
 邪馬台国の卑弥呼が巫女として「まつりごと」をしていたように、推古天皇の時代に母方の蘇我氏が実権をもっていたように、ヤマト王権も母系家族制が残っていたのではないでしょうか。神武天皇から崇神天皇の間の天皇が欠史八代と言われ、『古事記』や『日本書紀』でも、豪族の娘が妃で皇子が生まれ、豪族の祖にあたるとかだけ書かれ、何をしたとかが書かれていない。欠史八代と言われてもしかたがないですね。崇神天皇以前、或いは仁徳天皇までもそうかと思いますが、この時代は母系家族制だったと。そして、神武天皇以来、天皇家が父系家族制ではなく、継体天皇までは政権交代が頻繁にあったのではないでしょうか。
2018年9月17日

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