千本鳥居 最近、海外観光客の最多のスポットが京都の伏見稲荷大社だそうです。鳥居が約1万基もある千本鳥居があり、伏見駅のごく近くから赤い鳥居が続き、それが如何にも日本的と思われています。この赤い鳥居は、江戸時代になって町人や商人の信仰が盛んになったころから、商いの成功を祈願することから赤い鳥居を奉納する習慣が現れ、赤い鳥居が建てられるようになった。また、現在ではあまり見られなくなったが、商売をされている屋上に稲荷神社が祀られていたのをよく見掛けたものです。屋敷神を祀られているわけで、祖先神を祀られ、その中に稲荷神も多く祀屋上の稲荷神社られています。この習慣は江戸時代に確立したのでしょうね。全国の神社総数が8万社あるのに対して約3万社が稲荷神社であり、江戸時代以降、稲荷信仰が普及し、屋敷神として稲荷神が祀られるようになり、その屋敷神で稲荷神を祀っているのは関西より関東の方が多いというデータもあります。
伏見稲荷大社 伏見稲荷大社の多くの鳥居をくぐっていくというところに、日本を感じる海外観光客がいるのでしょうね。この千本鳥居をくぐり終えると伏見稲荷大社の楼門があり、その両サイドに稲荷神「狐」の阿吽が祀られています。阿吽は、阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされ、法隆寺の中門金剛力士やよく見られる神社の狛犬も阿吽にあたる。沖縄の屋根に祀られているシーサーも阿吽にあたりますね。伏見稲荷大社は、この沖縄シーサー阿吽が狐で、稲荷と狐がイコールということなのですね。なお、阿吽の狛犬を神社に据えるようになったのは、仏教の影響で、奈良時代から平安時代に行われた神仏習合の考え方からだと思います。伏見稲荷大社の創建は、藤原京から平城京に遍都された翌年の711年で、元明天皇の時代、その翌年の712年には太安万侶が古事記を完成し、撰上している。その時代に、太秦の秦都理の弟、秦伊侶俱が伏見稲荷大社を建立するのですが、『山城国風土記』に「伊侶俱が裕福で食べ物の餅を弓矢の的にして遊んでいたところ、餅に命中した瞬間、白い鳥に化けて飛んで行った。そこに、新しい稲が生えた。」という説話があり、その場所に五穀をつかさどる農耕神、食物の持つ生命力や稲霊を持つ神、ウカノミタマ(倉稲魂神)を祀った。それが伏見稲荷大社で、「稲生(いななり)」から「稲荷」となって、名付けられた。その当時から稲作が重要視されていたことがよくわかりますね。
 ウカノミタマは伊勢神宮の外宮に祀られているトヨウケビメと同一神として扱われ、鎌倉時代に編纂された伊勢神宮の『神道五部書』に内宮と外宮の神々について書かれた「御鎮座伝記」があって、内宮について、「御倉神(みくらのかみ)の三座は、スサノオの子、ウカノミタマ神なり。また、専女とも三狐神(みけつかみ)とも名づく。」と記される。ここに狐という文字が出てきますね。ウカノミタマは稲を収納する倉庫の神だったようです。稲を収納する倉庫が鎌倉時代から存在していたようで、その倉庫にある外敵がネズミだったようです。現在では、ネズミの天敵は猫で、ネズミ退治に猫を飼う習慣が戦前までありましたが、猫は奈良時代に輸入され、平安時代や鎌倉時代には高貴な方でないと飼われていなかった。その猫に代わってネズミを退治してくれるのが、キツネだったわけです。キツネはネズミを好物にしていましたからね。平安時代からキツネは穀物を食い荒らすネズミを捕食すること、狐の色や尻尾の形が実った稲穂に似ていることから、キツネが稲荷神の使いに位置付けられたようです。
いなり寿司 キツネの好物が油揚げと言われていますが、この油揚げはネズミの油揚げで、平安時代の頃、稲の倉庫にキツネを呼びつけるのにネズミを油で揚げたのをネズミの巣の近くに置いておいたそうです。それが仏教の影響で生き物を油で揚げる殺生があまりにも残酷なので、鎌倉時代末期ごろには庶民も豆腐を食べるようになり、その豆腐を油で揚げた油揚げがネズミの油揚げに変えられたようです。その頃から、キツネのことを「稲荷」と言われるようになった。稲荷神社に油揚げを供えるようになったのもその頃からだと思います。また、現在でも食べきつねうどんられている油揚げの料理、きつねそば(関東でそのように言われ、関西ではたぬきそば)やきつねうどんやいなり寿司は、江戸時代末期から明治時代初期に東京や大阪で考案された料理で、狐と稲荷をうまく使ったメイニングでした。
2018年9月3日

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