嵐勘十郎の鞍馬天狗 現在でこそ、「天狗の仕業」という言葉は、死語に近くなってきましたが、私が育った戦後間もない頃、明治・大正時代の人達は「原因が分からないもの」「モヤモヤとしてその根拠が希薄なもの」など、悪質な霊力が働いた不可思議な出来事のことを「天狗の仕業」という言葉で表わしました。子供の頃、そんなおじいさん、おばあさんに「天狗って、いるの」と聞いたことがあります。すると「いてるよ」と。確かに、祭りの夜店で天狗の面が売られていましたし、テレビの時代劇でも「鞍馬天狗」が放映されていました。「鞍馬天狗」というと大佛次郎の時代小説で、幕末の勤王志士で新撰組と戦う主人公。あの頃、実際に幕末に「鞍馬天狗」がいたと思っていた。全く、架空の人物でしたが、京都を舞台にし、鞍馬山の天狗という素材をもとに作られたと思う。鞍馬山の奥の谷に住み、その地の僧侶達が平安時代末期から、大天狗と称してきた伝説を基にしていた。この大天狗能「鞍馬天狗」は、源義経が幼少の頃、牛若丸と言っていた頃、鞍馬山で鬼一法眼という架空の僧侶に剣の修行を教わった人物だとされ、室町時代に作成された「宮増」の能のひとつの演目「鞍馬天狗」にも登場します。
 天狗は、平安時代初期に空海が中国から密教を持ち込み、今まであった自然崇拝信仰、特に山岳地に霊的な力があると信じられ、自らの生活を律するために山の持つ圧倒感を利用する形態が見出された山岳信仰と融合して作られた。その頃の天狗は、僧侶形で、時として童子姿や鬼形をとることもあった。そして、空中を飛翔することから、鳶のイメージで捉えられることも多かったとされる。今日、一般的に伝えられる、鼻が高く(長く)赤ら顔、山伏の装束に身を包み、一本歯の高下駄を履き、羽団扇を持って自在に空を飛び山伏天狗悪巧みをするといった天狗のイメージは、やはり鎌倉・室町時代に作られたようです。
 鼻が高いというイメージだけでいきますと、推古天皇の時代に百済人味摩之によって中国南部の江南から伝えられたという伎楽で使用された面も、そのように鼻が高い。奈良時代の大仏開眼供養で披露された伎楽の面が正倉院に保管されています。この面を見ると西洋人の鼻の高さに似ています。伎楽が最初に日本に伝わったのは、欽明天皇の時代で、呉国の国王の血をひく和薬使主が仏典や仏像とともに「伎楽調度一具」を献上したという記述が『日本書紀』にあります。この伎楽のルーツは、中国南部、西域、ギリシャ、インド、インドシナなど諸説があり、鼻の高い伎楽の面を見ますと西洋の雰囲気が漂っていますね。
 日本における天狗という言葉の初出は、舒明天皇の時代で。都の空を巨大な星が雷のような轟音を立てて東から西へ流れた。人々はその音の正体について「流星の音だ」「地雷だ」などといった。そのとき唐から帰国した学僧の旻が言った。「流星ではない。こ東大寺の伎楽面(酔胡従)れは天狗である。天狗の吠える声が雷に似ているだけだ」と『日本書紀』記されています。その当時の人にとっては、流れ星は予期せぬことだったのでしょう。「天狗の仕業」ですね。このように、中国では元々天狗という語は、凶事を知らせる流星を意味するものだったようです。大気圏を突入し、地表近くまで落下した火球はしばしば空中で爆発し、大音響を発する。中国の『史記』をはじめ『漢書』『晋書』には天狗の記事が記載されています。天狗は天から地上へと災禍をもたらす凶星として恐れられたようです。その天狗という言葉が舒明天皇の時代に伝えられましたが、それから結局、中国の天狗観は日本に根付かなかった。そして、舒明天皇の時代から平安時代中期の長きにわたり、天狗の文字はいかなる書物にも登場してこない。平安時代に再び登場した天狗は妖怪と化し、語られるようになるのです。でも、天狗という本来の意味は、「天狗の仕業」で現在まで残っているのも不思議ですね。
2018年6月11日

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