地球上に人類らしき生物が誕生したのは、ルーシーという名前で有名なアウストラロピテクスの女性の一個体と言われています。猿人ですね。400万年前~300万年前のアウストラロピテクスが中東アフリカで見つかりました。その頃の地球の地質は、パナマ地峡が形成され、ヒマラヤ山脈の上層が激しくなってきた新第三紀の鮮新世にあたり、岩石の浸食を招き、これによって大量のカルシウム塩が海に流入し、カルシウム塩が二酸化炭素を吸収し石灰岩化していったため大気中の二酸化炭素量は激減していき、寒冷化の進行を促した。北半球の殆どが氷河で包まれていました。そこに、高い山だけが陸地だったようです。そんな時代に日本に人類がいる訳ありませんね。そんな時代、日本列島も現在の姿とはかなり違っていました。
500万年前から現在の日本列島の経緯
600万年前〜40万年前の琵琶湖形成図 現在ある琵琶湖の形もその当時、見受けられませんでした。400万年前~300万年前の琵琶湖は、現在よりも南にあり、大山田湖と名付けられていました。そして、北上していき、阿山湖(約300~270万年前)、甲賀湖(約270~250万年前)、蒲生湖(約250~180万年前)、現在の琵琶湖の南端が現れるのが堅田湖(約100~40万年前)と移り、これらの湖を総じて「古琵琶湖」と言われています。1,650万年前~500万年前は、現在の奈良盆地は、「奈良湖」と言って、湖だったのです。
 日本一大きな湖、琵琶湖は、世界的にもバルカン湖と同じように古湖です。今から40万年前に現在の姿になった。その頃は、中国で北京市房山県周口店竜骨山の森林で発見された北京原1_650万年前〜500万年前の古琵琶湖人が存在し、石器や火を起こし、狩をして生活していたようですが、ホモ・エレクトス・ペキネンシスが日本にもいたかというと何ともいえない。その当時、日本列島に人類がいたことは肯定も否定もできません。その頃、中期更新世にあたり、気候はギュンツ氷期で地球が冷え込んだ氷河期。琵琶湖周辺で生活していたのは、ナウマン象やオオツノシカ。当然、その時期には琵琶湖周辺に人が住んでいるはずがありません。琵琶湖周辺に縄文人が住みだしたのは、滋賀県東近江市の相谷熊原遺跡で、13,000年前の竪穴式住居5棟と土偶が発見されています。旧石器時代、22,000年前の竪穴式住居がプロ相谷土偶野球の楽天の梨田監督の商業施設ビル建設予定地から発見されたはさみ山遺跡梨田地点から9,000年もあとなのですね。その後、徐々に寒冷期に向かい、8,200年前頃が一番寒かった。7,000年前頃から徐々に温暖化となり、5,000年前~4,000年前頃、縄文時代の繁栄期を迎えます。長野県茅野市の棚畑遺跡から発見された「縄文のビーナス」が縄文時代の繁栄期と言っていいでしょう。4,500年前ですから、日本の土偶の原型が琵琶湖の周辺の相谷熊原遺跡にあると言っても間違いないでしょう。縄文人は、やはり近畿圏から諏訪湖の信州へ、そして青森県の三内丸山まで北上したのですね。
 気候的温暖化の最盛期、4,000年前~3,500年前に琵琶湖の縄文人は、棚畑や三内相谷・正楽寺遺跡地図丸山よりももっと大きな集落を相谷熊原遺跡近辺の滋賀県東近江市能登川に。西日本でその当時、一番の集落と言っていいだろう。それは、正楽寺遺跡で竪穴式住居跡、掘立柱建物群、祭り広場など、縄文の人々の生活の跡や、生活に使われた櫛、土で作られたお面(土面)、石器、鏃、石斧など多くの遺品が見つかりました。掘立柱建物が14棟もあり、ドングリ貯蔵穴が130基以上、サヌカイトを用いた石器製作場、環状木柱列など。竪穴式住居は数え切れないほどあったようです。その後、紀元前後まで、冷涼化・湿潤化し,降水量も増加した。そ正楽寺遺跡の土面の間、縄文人は近畿圏から南下し、九州辺りに移動。紀元前後になって、気候も温暖化になり、水田に適した琵琶湖に、渡来人が集結するようになった。そして、正楽寺遺跡でも弥生人を中心にした大きな集落が。古墳時代、飛鳥時代と琵琶湖周辺では、稲作の収穫が日本一となっていった。天智天皇が都を近江京に移すぐらいでしたから、栄えていたのでしょう。
 琵琶湖は、天智天皇以後、これと言った発展はなかったが、琵琶湖から流れる宇治川の恵みを受けて、平安時代初期から貴族の別荘として宇治が栄え、藤原頼通が平等院を建立。鎌倉時代の初めに、臨済宗の開祖、栄西が日本人にとってお茶の習慣が崩れかかっていたのを嘆き、中国の宋から茶種を。そして、華厳宗で栂尾宇治抹茶の地に高山寺を建立した明恵に贈った。明恵は、高山寺の裏山、栂尾山に植えた。その後、宇治の地にも播植した。後嵯峨天皇が小松茶園、木幡に西浦茶園を開き、この地で本格的な茶の栽培が始まった。素朴さのなかに、日本人の風情を表現したものとして、茶道が室町時代に始まり、お茶を嗜む上で器が必要になってきた。その当時、京都や奈良に近かった滋賀県甲賀市信楽で、「茶陶信楽」として茶人をはじめとする文化人に親しまれ、珍重されてき信楽焼のタヌキた信楽焼が生産しはじめます。この信楽焼は、その信楽地方の粘土が良質であったために、茶道の広がりとともに全国的に広まった。江戸時代には、商業の発達にともない、茶壺をはじめ、土鍋、徳利、水甕などの日常雑器が大量に生産され、信楽焼の店頭には何故か、たぬきの置物が飾られるようになった。この信楽焼の原料、粘土は300万年前~250万年前の阿山湖や甲賀湖の当時の地層から堀ざされたものとされています。 
2018年6月7日

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