多鈕細文鏡 鏡として注目されているのは、邪馬台国の卑弥呼が魏の明帝から頂戴したという三角縁神獣鏡ですけれど、それ以前の時代にも銅鏡が存在していました。福岡の早良平野の中心部、貫流する室見川の中流左岸に立地し、西には飯盛山が。この地に旧石器時代から中世にいたる吉武遺跡群あり、その遺跡群の中の吉武高木遺跡の特定集団墓の3号木棺から銅剣2・銅矛1・銅戈1・ヒスイ製勾玉1・碧玉製管玉95と多鈕細文鏡が発見されています。この墓は、日本最初の王の墓と言われ、紀元前2世紀頃の墓。それまでの墓は土器の甕棺でした。この木棺は、古墳に埋葬されている割竹形木棺でした。高貴な方の墓なので割竹形木棺しょう。この福岡市西区吉武の地区は、邪馬台国の出現する前の北九州において、伊都国と奴国の境界にあり、日本で最初に国とした形態を整えた佐賀県唐津市の末羅国と同じ頃にこの早良の地に早良国ができたのでしょう。早良国が実際に存在したという方もおられます。また、末羅国が存在した宇木汲田遺跡でも多鈕細文鏡が発見されていることから。
 多鈕細文鏡は、化粧をするための鏡、三角縁神獣鏡が鏡背に神獣(神像と霊獣)が鋳出されているのに対して、細線の幾何学模様。そして、甕棺鏡の裏面に紐を通す鈕が普通の銅鏡でしたら1つなのに、2個から3個付いています。また、表面は、三角縁神獣鏡のような銅鏡であれば少し凸型になっていますが、多鈕細文鏡は凹凸があり、どうも太陽の光を集めて火をとる採火器に使用されていたようです。太陽信仰にも関係があったのでしょうか。縄文時代にはこのような青銅器の鏡は存在していないから、朝鮮半島から渡ってきたのは確かで、扶余合松里遺跡など朝鮮半島に29個が、日本では9個が発見されてい多鈕細文鏡が発見された遺跡る。その他に中国とロシアの国境に居住するツングース系の狩猟民族、オロチョン族では、神と人間の交信の仲立ちをする司祭者が鏡を衣服に括り付けて踊る祭事行事があるそうですので、中国の東北地方や遼東半島の一部でも発見されています。
 多鈕細文鏡は日本では9点発見されていますが、北九州に4点、山口県に1点、それから大阪に1点、奈良に1吉野ヶ里の福田形銅鐸点、さらに東の長野に1点発見され、多鈕細文鏡流行期より50~100年後の中国鏡が大量にもたらされた弥生時代中期後半になると姿を消しています。この多鈕細文鏡と銅鐸との因果関係が1998年に佐賀県の吉野ヶ里遺跡から「福田型銅鐸」が発見されたことにより、銅矛は主に北九州周辺、銅鐸は近畿から東海地方にかけての地域という銅鐸文化圏と銅矛文化圏という考え方が崩れ、1891年に広島県福田(木ノ宗山)で発見されたことから「福田型銅鐸」が吉野ヶ里の銅鐸と同じもので、どうも北九州から広島、出雲、そして近畿圏に伝わった。その経過から考えると日本の多鈕細文鏡と銅鐸の起源は同じ佐賀周辺にあったことが分かります。
 福岡県大野城市と糸島市を結ぶ福岡県道49号大野城二丈線があり、その通過点に福岡市早良区から西区を通過して糸島市に入る境界に日向峠があります。現在では「ひなた」と読んでいますが、これを「ひゅうが」と読めないですか。そう、神武天皇が生まれた「日向」です。佐賀県唐津市の宇木汲田(多鈕細文鏡)、福岡県糸島市を経て、存在したかも知れない早良国の吉武高木(多鈕細文鏡)、山口県下関市の梶栗浜(多鈕細文鏡)から広島県福田の木ノ宗山(銅鐸)、そして大阪府柏原市大県(多鈕細文鏡)を経て、奈良県御所市名柄(多鈕細文鏡)の経路は、何か神武東征の経路に似ていませんか。
2017年12月17日

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