現在、水田跡の最古のものとしては、縄文時代晩期の佐賀県唐津市にある菜畑遺跡でおおよそ3,000年ほど前とされています。その当時の日本各地の人口は、小山修三先生によると日本全体で161,000人、九州では10,000人、もっとも多いのは関東の52,100人、その次が東北の43,800人、のちにヤマト王権があった近畿ではわずか4,400人だったそうです。縄文時代の主流の日本人は、東日本であったことがわかります。縄文時代中期の東北の繁栄を如実に表わしているのが、狩猟採取生活をおくっていた青森の三内丸山遺跡にも現れていますね。西日本では、約7,300年前の鬼界アカホヤ火山の大噴火とトチ、ナラ、クルミ、クリ、カシなどの堅果類の栽培に適していない気候でしたから、縄文時代中期の日本の人口が262,500人の内、九州では5,300人、中国では1,200人、四国は僅か200人、近畿でも2,800人しかいませんでした。中部で71,900人、関東は最高の北朝鮮の漁船漂流事件96,600人ですからね。この縄文時代中期の人口増加は、現在問題になっている北朝鮮の漁船漂流事件と同じように日本海の荒波に流され、朝鮮半島北部から北陸や東北の日本海沿岸に渡来人がやってきた。その文化は、遼河文明で、その当時の話し言葉はツングース語だったと思われます。その当時の日本の森林では、堅果類ができるブナやナラ系の落葉広葉樹が東日本にみられた。しかし、縄文時代晩期になって、西日本では偏西風の影響で、カシ・シイ・クスなどの常緑広葉樹が増え、温帯低気圧の発生などにより、夏の時期に雨がよく降る気候になり、水田による稲作に適するようになった。そこに、中国の揚子江付近から偏西風によって熊本や長崎や佐賀や福岡に上陸し、縄文時代晩期に水田の稲作を持ち込んだ。島根県飯石郡飯南町志津見の板屋Ⅲ遺跡から縄文時代草創期の地層(アカホヤ火山灰層の上下)で稲のプラント・オパールが、また岡山市津島東の縄文時代の朝寝鼻(あさねばな)貝塚で、約6000年前の縄文前期の土壌から、栽培されたとみられる稲の細胞に含まれるプラント・オパールが発見されていることから、縄文人はすでに米の存在はしっていた。ただ、主食として採用していなかったようで、アワやあずきやキビなどと一緒に畑で栽培していたようです。菜畑遺跡でも水田の他に、アワやあずきやキビなどの畑も発見されています。水田様式は、やはり中国から。その時に農具や水路などの農業のノウハウが入ってきていると思われます。熊本や長崎や佐賀や福岡に水田の稲作が日本では最初で、渡来人だけの集団だけではなく、従来その地にいた縄文人に中国から渡って来た長江文明の人達が加わった形だと思われます。
稲作の開始年代・地域と稲作の伝播ルート
 北九州から始まった水田様式は、弥生時代には西日本に普及し、約2400年前~2300年前の東日本最古の稲作跡、青森県弘前市の砂沢遺跡にまでハイペースで浸透していった。それは、弥生時代の人口にも表れ、その当時の総人口が601,500人で、一番多いのが近畿で108,400人、その後が九州で106,300人、関東でも日本語の起源・形成のプロセス100,000人となっています。日本では、その弥生時代には、口頭か絵で表現することしか出来なかった。中国からの渡来人が水田様式を伝えるのに母国の言葉では縄文人に通じず、母国の文字を縄文人に教えることなど全くなかったと思います。そして、農機具の名称や意味を考えた縄文人は、自分たちの言葉で後世の弥生人に伝えていった。それが、水田様式が全国に浸透するにつれて、各地でその日本語が共通語になっていったと考えています。
 日本語の起源という問題が話題になり、インドのタミル語に近いとか、現代死語になっている高句麗語や扶余諸語からきているなどいろいろな説がありますが、私は縄文時代に関東や東北で使っていたアルタイ系言語のツングース語の言葉に縄文時代晩期から全国に広まっていった水田とともにその用語や話し言葉、発音体系が比較的単純で開音節であるなど日本語と似ているオーストロネシア系言語の混合だと思います。
2017年12月3日

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