菜畑遺跡の水田跡 先史時代の日本、特に漢字が応神天皇の時代に王仁(和邇吉師)が百済から漢字と論語を伝えるまでの縄文時代と弥生時代までは日本に文字が存在しなかった。石器時代から石や岩に刻まれた絵文字は存在していたかも知れませんが。人に何かを伝えようとする行為は、話し言葉での言い伝えもあったでしょうし、絵文字を使った古代の人もいたでしょう。この行為は、人間が生きていく上で、子孫に伝えるための生活の知恵。たとえば、佐賀県唐津市にある菜畑遺跡では、紀元前930年頃の水田跡が発見され、この水田跡は、畦畔や矢板列によって区画されて、縄文時代晩期から弥生時代中期にかけて数期にわたる変遷(へんせん)が明らかになりました。最下層の水田跡からは、炭化した米や木製農具とともに縄文時代晩期後半の土器が出土している。この頃、古代人が食生活をする上で稲作を子孫に伝えていくために水田を耕す方法などを言葉で伝えていったのでしょう。そして、日本での集団村落、国の芽生えもこの地から始められ、『魏志倭人伝』でも邪馬台国に至るまでの国、末蘆国になっていった。
 この邪馬台国の時代でも日本には、正式な文字はなく、国を治める行政で使用する御触も口頭で行われていたと思われます。『日本書紀』によると、応神天皇の時代、298年に百済王は阿直岐(阿知使主・阿智王)を遣わしたとあり、『新日本紀』では、阿智王は後漢の霊帝の曾孫で、東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので帯方郡から「七姓民」とともにやってきた。この阿智王とは、漢氏(東漢氏)の祖と言われ、平安時代の征夷大将軍になった坂上田村麻呂もその子孫。その阿直岐が連れてきた学者に王仁がいます。でも、この応神天皇や仁筑前国嶋郡川辺里戸籍の木簡徳天皇の時代に『千字文』で書かれた木簡や『論語』の写しなどの複製木簡は見つかっておらず、敏達天皇の時代の572年に高句麗から上表文、(カラスの羽に書かれていた)を解読するものがおらず、唯一解読できたのが王辰爾(王智仁)が湯気で湿らせて布に写し取るという方法で解読。ヤマト王権の上層部では、漢文で書かれた文章を読む能力は備わっていたと思われますが、このようなからくりには対応できなかったのでしょう。この王辰爾が王仁の逸話を創作したとも言われています。王辰爾が『論語』を日本に普及したとも言われていますから。漢文を読んだり書いたり出来るようになったのは、欽明天皇の時代の552年の『日本書紀』に記されている仏教公伝からのようです。現在で一番古い木簡は、やはり仏教に関係があり、東京国立博物館に存在し、1878年に皇室に献納された「法隆寺献納宝物」の木簡。東京国立博物館と奈良文化財研究所による共同調査によって、館蔵資料から献納宝物の一部と考えられる木簡 8 点が確認され、書かれた文字の書風や内容から 7 世紀に遡る可能性の高いことが判明されています。『日本書紀』に記載されている聖徳太子の「十七条憲法」も木簡で書かれていたかも知れませんね。また、『日本書紀』によると、欽明天皇の時代の540年に「秦人・漢人等、諸蕃より投化せる者を召し集へて、国郡に安置し、戸籍に編貫す。秦人の戸数七千五十三戸、大蔵掾を以て、秦伴造となす」とあるように一部の戸籍調査が行われ、その戸籍にも木簡に記載されていたと思われます。戸籍を記載された木簡の一部が現在でも残っていて、福岡県太宰府市の国分松本遺跡で発見された現在最古の戸籍の木簡で、持統天皇の時代の飛鳥浄御原令で690年に全国的な戸籍の庚寅年籍が作成された頃、律令国家体制が整う大宝律令の施行、701年のために統治の基本となる戸籍調査が行われ、東大寺の正倉院に伝わった「筑前国嶋郡川辺里戸籍」の地域の保管されていた木簡です。
 応神天皇時代に『千字文』が日本にもたらされた話は別として、欽明天皇の頃にはヤマト王権の上層部では、『千字文』は普及されていたようです。天智天皇が大化の改新により政権を手に入れ、668年の律令制度を決め越前和紙た近江令の施行から、地方の役人にも公文書のような政府の文章の作成が盛んになり、各世帯の情報を木簡に書き、その情報を和紙に写す作業が定着していたと思われます。和紙の起源は『日本書紀』によると、履中天皇の時代の403年で現在生存していないですが、日本初の国史の編纂にあたった経緯から初めて紙が使用された。この紙は輸入物であったか、国産品であったかは定かではありません。540年の欽明天皇の渡来人の戸籍の時には、秦氏が製造したようです。製紙技術の歴史は、後漢時代の蔡倫の改良から始まると言われ、中国から日本への製紙技術は、推古天皇の時代の610年に高句麗を経由して伝わったと言われています。
 日本の縄文時代・弥生時代には、物事を伝える手段として話し木製のタグ言葉で済ましていたのですが、集落から国にそして、国家の誕生とともに記録として文字が必要になり、中国から百済経由で『千字文』が入って来て、国史の編纂や戸籍調査などの書類的業務が発生し、木簡や和紙が製造されるようになりました。現在で言う情報公開ですね。和紙が全国的に普及することにより、木簡の盛期は8世紀末まで徐々に減少しますが、通行証や荷札(タグ)や絵馬は現在でも見受けられます。
2017年11月19日

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