ヤマト王権が考古学的に存在したのは、卑弥呼が邪馬台国の女王になっていた頃、3世紀の前半で、ヤマト王権の拠点となった纒向遺跡で3世紀初頭の纒向石塚古墳(奈良県桜井市太田字石塚)が存在し、前方後円墳の朱塗の鶏形木製品最古の古墳とされています。その古墳には、埴輪は存在しないのですが、周濠より吉備系の祭祀用遺物の弧紋円盤や朱塗の鶏形木製品や土師器が発見されています。これは何を意味しているのでしょうか。この頃からヤマト王権と吉備王朝には何かの関係があった。纒向遺跡の井戸跡から3世紀前半の平面の木製仮面も見つかっており、木製品の素材の年輪を調べるとそれらが製造された年月が判明され、朱塗の鶏形木製品の素材は、170年頃の年輪を示し、木製品の年輪年代測定などから、纒向石塚古墳は遅くとも225年頃までには築造されていたとされ、3世紀初期には纒向にヤマト王権が存在していたことが証明されます。また、朱塗されていたことは、その当時、鉄の生産が行われていたことになり、その生産に当たった職人が吉備の人達であったようです。
纒向古墳群
 吉備王朝とヤマト王権との関係がいつ頃からあったのかは定かではありませんが、『古事記』や『日本書紀』に記載されている神武天皇の東征では、神武天皇は九州の日向から出発し、北九州の筑紫から吉備へ。『古事記』では吉備の高島宮(岡山市南区宮浦)に8年も滞在とあり、『日本書紀』では3年となっている。この辺りで吉備王朝とヤマト王権との結びつきがあったようです。その3年後に、三輪山の麓の橿原神宮辺りで大和朝廷を発足し、初代天皇になる訳です。記紀では、紀元前660年だとされていますが、実際は中国の『後漢書』卷85東夷列傳第75に記載されている「桓帝・霊帝の治世の間(146年~189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。」の倭国大乱があった2世紀の頃ではないかと思われます。神武という名称は、奈良時代後期に大友皇子の曽孫であった公家、淡海三船が名付けたもので、持統天皇以後に先帝の崩御後に行われる葬送儀礼の一つとして贈った和風諡号(国風諡号)は、「かんやまといわれひこのすめらみこと」であり、この「いわれ」は地名(現在の奈良県桜井市中部から橿原市東南部の一帯)を表わしています。『古事記』、『日本書紀』にしても持統天皇の頃に編纂されたもので、和風諡号もその頃となると神武天皇の存在が疑わしいことになりますね。
 もしヤマト王権が纒向に拠点を置いていたとすると、3世紀以降に存在する纒向には吉備出身の人達も共に生志貴御縣坐神社活したことになり、鉄の機器や土師器のような土器も吉備の人達が製造していたことになります。また、崇神天皇の宮、磯城瑞籬宮(奈良県桜井市金屋・志貴御縣坐神社)も纒向に存在し、『古事記』では崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので、これを信用して318年(または258年)没と推測され、崇神天皇の時代かそれ以前のヤマト王権の君主が纒向にやって来たことが十分に考えられます。まさに、神武天皇は作られた人物となり、『日本書紀』によると、崇神天皇から任命された四道将軍のひとり、吉備津彦命は第7代孝霊天皇の皇子となっていますが、これも天武・持統天皇時代に作られた家系図となるわけで、吉備津彦命自身は存在せず、纒向にいた吉備の人達の代表となり、吉備王朝の大王の総称となると思います。ここで、邪馬台国と纒向にあった連合国家、ヤマト王権との関係になりますが、邪馬台国の卑弥呼が生存していた頃と同時期に、すでに纒向を拠点にしたヤマト王権が存在していたとなると、邪馬台国の近畿説は否定され、箸墓古墳も卑弥呼の墓ではないということになります。
2017年9月17日

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