クリスマス 日本では、クリスマスがイエス・キリストの誕生日であると誤解されています。実際に、イエス・キリストの誕生はいろいろな説がありますが、新約聖書にはイエス・キリストの誕生日に対する記事はありません。また、西暦1年がイエス・キリストが生まれた年。これも事実ではないようです。共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルが紀元前45年1月1日から使用している太陽暦、ユリウス暦によって西暦1年が設定された。共和政ローマからアウグストゥスが皇帝になりローマ帝国を紀元前27年に建国し、その後ローマ帝国は東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂し、284年に東ローマ帝国の皇帝に就いたディオクレティアヌスがキリスト教徒を迫害したこともあったが、テオドシウス1世が392年に東西のローマ帝国の皇帝に就任して、古くからの神々を廃し、キリスト教を国教とした。キリスト教ではユリウス暦を採用していたが、このディオクレティアヌスがキリスト教徒を迫害した年をキリスト教での紀元1年としていた。そして、キリスト教の教義が確立されていく中で、キリスト論や三位一体論の解釈においてさまざまな立場が現れたために、キリスト教の歴史で最初の全教会規模の会議、第1回ニカイア公会議が325年に小アジアのニコメディア南部の町ニカイア(現トルコ共和国ブルサ県イズニク)で開かれた。そこで、イエス・キリストが十字架に架けられ死亡して、3日目に復活する日に復活祭を開催する事も決定され、キリスト教として復活祭にあわせての暦、復活祭暦を採用するようになった。その後、復活祭暦表を改訂するに当たり、525年にスキタイの二十四節気修道僧共同体の一員であったディオニシウス・エクシグウスは、迫害者の名を未来に残すことを嫌い、イエス・キリストの誕生年を西暦の紀元1年にした。キリスト教の暦としてその頃から使用されていましたが、世界的にはまだまだ普及されませんでした。西暦が普及したのは、閏年の問題で1582年にローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦を改良して、1年を365日にして4年に1回、1年を366日にする閏年を設けたグレゴリオ暦からです。勿論、このグレゴリオ暦もキリスト教の西暦の考え方を継承しましたから、西暦1年はイエス・キリストの誕生日にしていました。
サートゥルヌス グレゴリオ暦で12月25日をクリスマスとして、イエス・キリストの誕生日としたのは疑問で、聖書の中にイエス・キリストが誕生した時に、羊飼いが誕生を祝ったあと夜中の見張りに戻ったとあり、イギリスの天文学者D・ヒューズが天文現象から考えて、羊飼いの見張りが必要なのは、羊を放牧するのは4月から9月の間で、12月25日では羊は小屋の中で羊飼いの見張りがいらない時期だと主張し、イエスの誕生日は紀元前7年9月15日とする説を発表している。古代エジプトの人達が灌漑による農耕をするに当たって、ナイル川の氾濫の時期を知るために、夜の星、太陽の次に明るい恒星、オリオン座のシリウスの日出直前の出現を観察してエジプト暦(シリウス暦)を作成します。また、古代の人は月が太陽と重なる新月を1日とし、満月になり、また新月になるまでを一ヶ月をして、潮が引き潮と満ち潮が1日に2回繰り返すことから月日を計算し、太陽の日の出と日没の時間から季節を感じていました。そして、一年のうちで一番日の長いのはいつか、一番日の短いのはいつかといっサートゥルナーリア祭た事を、長い年代をかけて見出していった。中国の戦国時代の頃に太陰暦による季節のズレを正し、季節を春夏秋冬の4等区分にするために考案された区イメージ 4分手法、二十四節気が考案され、一番日の長い日を夏至、一番日の短い日を冬至とするわけですね。一番日の短い冬至を古代の人は、1年の終りであり、新しい年の始めとしたのです。この冬至の時期がクリスマスと重なります。ローマ神話に出てくる農耕が時を刈り取るという意味も持つサートゥルヌス農耕神を祭るサートゥルナーリア祭(奴隷とその主人がこの期間だけ表面上役割を入れ替えて振舞った)がこの冬至の時期に催された。このサートゥルナーリア祭がクリスマスの起源と言われています。
2016年12月18日

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