『日本略史 素戔嗚尊』に描かれたヤマタノオロチ 現在では、人身御供(ひとみごくう)のようなことはなくなりましたね。人身御供は、日本でも古代から、災害の気紛れな自然に対する畏怖のため、人身を捧げる行為や王の死の葬儀に伴う生き埋めの行為が整然と行われていました。『古事記』によれば、スサノオが母、イザナミの国(根の国)に行きたいとイザナキに訴えて、高天原から追放され、出雲の国の鳥髪山(現在の船通山)に降り立つ。そして、箸が流れてきた川を上ると、美しい娘(クシナダヒメ)とオオヤマツミの子、アシナヅチとテナヅチの老夫婦に出合う。その老夫婦の曰くには、「ヤマタノオロチという怪物に毎年娘を人身御供として食われてしまい、最後の末娘のクシナダヒメだけが残った。今年は、この娘の番。」と嘆いていたので、スサノオは、ヤマタノオロチを退治に向かいます。このヤマタノオロチは、高志(越)の国から攻めてきた部族という説もありますが、船通山を源流にし、出雲平野から宍道湖に流れる斐伊川をヤマタノオロチ(龍)にたとえ、洪水を恐れた出雲の人達は、斐伊川に人身御供として、人身をお供え物として差し出した。この人身御供は出雲の話ですが、日本の各地に人柱の伝説がいろいろありますね。
亀の甲羅に書かれた甲骨文 この人身御供は、日本独自のものではなく、中国から渡ってきた風習で、今から4,000年程前から3,000年前に掛けて、地球が寒冷化と温暖化をたえず繰り返していた時期に、中国の黄河が氾濫して、たえず洪水に見舞われた。その対策として人身御供が。それが風習になり、殷王朝では異民族の人達を捉え、甲骨文字の占いで、神の意思を確認したらしく、盛んに生贄を行っていた。また、異民族だけでなく、殷代の墓から45人分の殉死者が生きたまま埋められた例もあります。秦の時代になって、始皇帝の墓地には兵馬俑と形が変わってきますが、以前、人身御供は中国では続いていました。この人身御供がなくなったのは、3世紀の中国三国時代の蜀の宰相・諸葛亮が、南征の帰途に、川の氾濫を沈めるための人身御供として生きた人間の首を切り落として川に沈めるという風習を改めさせようと思い、小麦粉で練った皮に羊や豚の肉を詰めて、それを人間の頭に見立てて川に投げ込んだところ、川の氾濫が静まったという。これが、中国の饅頭の起源です。
 日本に饅頭が中国から伝わったのは、平清盛が中国の宋と貿易を盛んになってからのことで、源頼朝が鎌倉に武士の世の中を作り、仏教も武士から禅宗の僧になる人が増え、その当時新興宗教の鎌倉仏教が芽生えた時代。鎌倉幕府は、平家が盛んに行った日宋貿易には消極てきでしたが、南宋との仏教の交流紅白饅頭だけは継続していました。南宋から新興の仏教を持ち帰るのと同時に饅頭が日本に伝わった。南宋から持ち帰った饅頭は、現在の肉まんのように小麦粉の皮の中に肉や野菜が入っていました。でも、禅宗の僧侶は、殺生した動物の肉を食べることはできません。そこで、今の精進料理に出てくる点心が、日本の饅頭の原点です。饅頭が日本に伝わる少し前に禅宗の臨済宗を起こした栄西が南宋からお茶の木を博多で最初に植え、また宇治の明恵上人が宇治茶の源となるお茶の木を宇治に植えた。そして、武士の間でお茶を飲む習慣ができ、日本人がお茶を嗜む習慣ができました。それから長い間、一般庶民には饅頭は食べられなかったのですが、茶道が武士の間で普及する過程で、お茶にそえるお菓子も。そこで、小麦粉の皮の中に野菜を入れていた饅頭ではあったが、野菜の代わりに小豆を入れ、これが日本式饅頭として茶道の和菓子として。江戸時代になってからは、南蛮菓子や中国菓子の製法として焼き菓子の製造技術が日本に伝播されたこともあって、庶民に和菓子の饅頭が普及し、紅白饅頭、酒饅頭などは祝事や黄白饅頭、おぼろ饅頭などは弔事に使われるようになりました。
2016年11月20日

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