日本の神話で、ニニギが天孫降臨して、オオヤマツミの娘のコノハナノサクヤビメと結ばれ、ホデリ(海幸彦)とホヲリ(山幸彦)を産みます。そして、ホデリの釣り針を海でなくしたホヲリが困っているところに現れるのがシホツチノヲヂ(塩椎神)で、ホヲリを竹で編んだ籠の船に乗せ、ワタツミの宮に行かす。そこで、ワタツミの娘のトヨタマヒメと知り合う。また、神武東征の話で、イハレビコ(神武天皇)に東によい土地があると勧めたのもシホツチノヲヂで、多氏や物部氏や中臣氏が東国に進出する時もこの神が先導している。このシホツチノヲヂが塩を伝えたと言われていますが、ヤマト朝廷が東国に進出していくにあたって、稲作の推進とともに塩の製造方法も大きな役割を持っていたことが伺えます。
岩塩 塩は、日本では海から産出すると思われていますが、世界的には岩塩が主流で、ヨーロッパや北アメリカでは岩塩を水で煮込んで塩にしています。岩塩は、地球が寒冷化と温暖化を10万年周期で繰り返し、氷河期に起きた地殻変動などで海水が凍ったまま地上に残され、砂漠の塩湖で水分が蒸発し、塩分が濃縮して結晶かした。地球の温暖化の時期、20万年前頃に出現した人類は、広葉樹の果実で炭水化物、哺乳類の肉、ミルク、魚等でたんぱく質やナトリウムやカルシウムなどのミネラルを摂取できるので、狩を中心に生活を営んでいた。それが、地球の寒冷化が始まり、今まで海であったところが海水の湖になり、海水は水分がなくなり、海水の塩分は岩塩と変化していった。人類は広葉樹の果実を求めて移動を始め、この岩塩を発見したのでしょう。人類が生命を維持するには、水とナトリウムやカルシウムなどのミネラルが必要ですから。約10万年前~5万年前に最後の氷河期が終わってから、食糧を求め、水やナトリウムを求め、大陸内部での生活から海辺での生活をするものもあった。古代中国での塩の産地としては、内陸部では山西省運城市の解州の「塩池」の塩湖や青海省・新疆ウイグル自治区・内モンゴル自治区などの「塩池」や自貢市を中心とする四川省や雲南省には、濃い塩分を含む地下水をくみ上げる「塩井」があり、海岸部では河北省の長蘆塩、山東省の山東塩、江蘇省(長江以北)の両 淮塩、江蘇省(長江以南)・浙江省の両浙塩、福建省の福建塩、広東省の両広塩があります。

 10万年前~5万年前の人類は、狩を中心に生活していたのですが、次第に家畜を飼うようになり、遊牧生活に移っていった。そして、各地の湖や山岳地帯の地下水辺りから塩を発見し、生命の維持のため水と一緒に摂取していたと思います。そして、紀元前12,000年程前から焼畑による陸稲栽培が始まり、紀元前2,500年程前から水田による稲作が始まった。人類は広葉樹の果実から炭水化物を摂取していたが、稲作の発展により米から炭水化物を摂取するようになり、野菜の栽培も始めました。すると、野菜を食べるのに塩が必要になってきます。海岸線で生活しているのであれば、土器に海水を入れ、煮詰めれば塩ができますが、海辺でもなければ、塩池や塩井もない場所に移住している人は塩を求めるようになります。そして、塩の物々交換が始まりました。
盛り塩 前漢の武帝(紀元前156年~紀元前87年)が匈奴との度重なる争いから、国家財政が悪化し、均輸法(市場価格が下がった物資を国家が買って、その物資が不足して価格が高騰している地域に輸送してその地域の市場に払い下げる)と平準法(市場価格が下がった物資を国家が買って、高騰した時に市場に払い下げる)を唱えた桑弘羊らの意見を取り入れて、塩、鉄、酒を専売制にして財政を立て直した。このように、塩は人が生活する上での必需品であったことがわかります。
 日本では、岩塩や塩湖は存在せず、縄文時代より海水を煮込んで生産する「採鹹」や「煎熬」を繰り返して塩を生産していた。日本は海に囲まれているので、塩の生産は簡単であるように思われるが、不純物も多く含まれるので食用には限られ、瀬戸内海近辺や能登半島付近の海水でしかよい塩、食用塩が取れなかった。それだけ塩は貴重な品物だった。日本では、昔から穢れを祓うのに盛り塩が使われているのもわからなくもないですね。
薄塩焼 縄文時代晩期から弥生時代、古墳時代までの製塩方法は、万葉集などにも歌われています薄塩焼で、藻(ヒジキやアカモクなどのホンダワラ)を焼き、その灰を海水で固め灰塩を作る。そして、灰塩に海水を注ぎ、かん水を採る。藻を積み重ね、上から海水を注ぎ、かん水を得て、これを煮つめる。このような手間のかかるやり方で古代の人は、塩を生産していたのですね。
2016年9月6日



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