日本神話でニニギが高千穂に天孫降臨のときに、アメノオシヒとアマツクメが背に強固な靫を負い、腰に頭椎の太刀を下げ、手に天のはじ弓を持ち、天の真鹿児矢をたばさんで、天孫の先導をした。この時のアメノオシヒの子孫が大伴氏で、第12代景行天皇の時代か第13代成務天皇の時代に、4世紀中期に大伴武日が現れ、大伴の姓を名乗った。その武日の子、武以が第14代仲哀天皇の時代に、大連に就任している。朝廷の直属の伴部を総括し、祖先伝承によると来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていた宮廷を警護する皇居警察や近衛兵の役割を担った。そして、第21代雄略天皇の時代、5世紀後半に大伴室屋が大連になり、ヤマト王権に参画して勢力を誇っていた葛城氏に変わって大伴氏が台頭した。そして、第24代仁賢天皇で大臣を務めていた平群真鳥を小泊瀬稚鷦鷯尊(後の第25代武烈天皇)の命(物部麁鹿火の娘を后にしていたが、その娘が平群真鳥の子、平群鮪と通じていたので)により討ち、武烈天皇の時代に大伴金村が大連に就きます。
 この大伴金村は、武烈天皇の崩御で跡継ぎのないので、仁徳天皇の子孫として継体天皇を即位させた。また、百済が512年に高句麗との戦い(新羅がその当時ヤマト朝廷と同盟を結んで、高句麗の駐留軍を全滅させたために、高句麗の長寿王が南下)で北部の領土を失うと南部の任那(ヤマト朝廷と関係があった狗邪韓国、駕洛国などの諸国)の4県割譲要請をしてきた。そこで、大伴金村は、百済の請求が新羅の助勢にあるのでその旨を受け入れた。その時、大伴金村は、その見返りに百済に五経(儒教の経典:詩・書・礼・易・春秋)博士の派遣を依頼している。そして、百済から五経を習得した官僚たちが渡来した。この頃に日本の漢字文化が出来上がったと思われます。
 その後、新羅が任那の南加羅・喙己呑を奪い、大伴金村は奪い返すために近江毛野を新羅に派遣。しかし、新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった筑紫国造磐井に賄賂を贈り、阻止しようとした。そこで、528年に大伴金村は、大連であった物部麁鹿火を北九州に派遣して、磐井を討った。磐井の乱です。529年に近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行った。539年に第29代欽明天皇が即位し、血縁関係を結んだ蘇我稲目が大臣に就任する。大伴金村は、540年に新羅が任那の併合問題で交渉するが失敗におわり、物部尾輿らから外交政策の失政や百済からの賄賂などを追求され失脚した。
 大伴金村が政界から隠居した後、欽明天皇のもとで物部尾輿と蘇我稲目の政権争いに発展していきます。仏教公伝で、廃仏派と崇仏派に分かれて争われることになります。541年に百済の聖明王と任那の復興について協議。しかし、新羅との戦況は百済側に不利で、552年には平壌と漢城を放棄。この頃ですね。聖明王が新羅に対抗するため、さかんにヤマト朝廷に対して援軍を求めた。その見返りに先進の大陸の文化を日本に伝えた。その中に仏教公伝もあります。また、日本最初の暦も、553年に欽明天皇が百済に暦博士の来朝を要請し、このときに伝来した暦が元嘉暦ではないかと言われています。結果的には、聖明王が亡くなると新羅軍は勢いづき、562年には任那は滅んでしまいます。
 ヤマト朝廷として、任那が朝鮮半島の基点であったのにその地を失ったことで、日本国の確立に動き出すのですね。それまでに、大陸の文化を百済から摂取していた。その辺りがその当時の政権の賢さですかね。そして、百済も660年に新羅によって滅ぼされます。ヤマト朝廷も最後の抵抗はしますが、朝鮮半島から完全に撤退し、独自の国作りをしていく。そして、第40代天武天皇の時代に日本国が正式に誕生するのです。
2015年12月31日

にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録