ヒスイ 日本神話で天孫降臨の時に、ニニキがアマテラスから授けられたという鏡・玉・剣の三種の神器のひとつにヒスイの勾玉があります。このヒスイの勾玉は、縄文時代前期中程から中期末(約5,500年前~約4,000年前)の青森県の三内丸山遺跡からも発見されています。縄文人が5,000年も前からヒスイを扱っていた。それもヒスイの産出地は新潟の糸魚川辺り。そのヒスイが青森で。新潟県の長者ヶ原遺跡からはヒスイ製勾玉とともにヒスイ加工工房も見つかっています。ヒスイはヒスイ輝石が原石で、純粋なものは白色ですがそこに鉄やクロムが混じって薄い緑色になります。元々は火成岩の変成岩で、プレートの下部にあるマントルのかんらん岩に水が加わって蛇紋岩化され、糸魚川市の姫川から流れ、日本海の荒れ波に揉まれている間にヒスイ輝石となります。海岸で縄文人が拾って首飾りとして勾玉を作った。
出雲大社の勾玉 一度は平家と源氏の壇ノ浦の戦いで海に沈められた三種の神器ではあるが、勾玉だけは天皇家に無事に戻ってきて、八尺瓊勾玉が今も皇居にあります。誰も見ることはできませんが、出雲大社に保管されている立派な勾玉と変わりがないと思われます。出雲もある勾玉ですが、日本神話でオオクニヌシが高志の国(越の国)からヌナカワヒメを娶っていてこのヌナカワヒメは、糸魚川市にある天津神社の社内に奴奈川神社があり、そこに祀られている。ヌナカワヒメは、ヒスイに関係ある姫でオオクニヌシとの間にタケミナカタを産んでいる。このタケミナカタは、アマテラスが葦原中国の平定させるために高天原から降臨させたタケミカヅチと相撲をして敗れ、母の国、高志の国に帰り、タケミカヅチに追い詰められて諏訪まで逃げた神です。そして、諏訪大社に祀られるようになりました。神話から判断して、この諏訪を含めた新潟、富山付近には縄文人の血を受け継いだ勢力がいたと言ってもいいかも知れない。
 縄文時代から弥生時代に以降していく中で、出雲や北九州に鉄器の文化が入ってきて、その鉄器を手に入れるためにヒスイが利用された。この事実は、日本でもヒスイの生産が新潟県糸魚川市姫川流域、北陸の海岸や富山県の宮崎・境海岸(ヒスイ海岸)、兵庫県養父市(旧大屋町)、鳥取県、静岡県引佐地区、群馬県下仁田町、岡山県新見市の大佐山、熊本県八代市泉町など限られ、朝鮮半島や中国には存在しない宝石です。だから、秦の始皇帝などは、中国の新疆ウイグル自治区のホータン(和田)地区から採取される軟玉のヒスイを勾玉として使っていた。ヒスイの値うちは、中国の人も朝鮮の人も知っていた。日本のヒスイは、その人達にとって重宝がられていたことになります。古墳時代に入り、朝鮮半島南部に古墳が出現し、特に新羅側の慶州の古墳に多くの糸魚川姫川から採れたヒスイの勾玉が発見されています。これは何を意味しているのでしょうか。日本国内でも古墳がたくさんあり、弥生時代に朝鮮半島から渡ってきた人達が造築したものと考えられます。しかし、古墳自体が朝鮮からもたらされたのではないということは、古墳の中に埋蔵されていた日本製のヒスイの勾玉が発見されたことにより、さらに明白になりました。縄文時代の末期から弥生時代の前期にかけて、縄文人が朝鮮半島に渡っていたことが土器などからも明らかにされつつあります。神功皇后の時代に新羅と戦ったのか。朝鮮半島南部には、縄文人の血を受け継いでいた同胞がいたからです。また、大伴金持が任那4県の割譲で百済に譲渡したとき蘇我氏が反対し、大伴氏に変わってヤマト朝廷の実権を握っていく。これは、ひょっとして、蘇我氏がヒスイと鉄器の売買の中心氏族であったからという話もあります。実権を握るには財力が必要でしたから。また、今の天皇の最初の血筋とされている第26代継体天皇は、大伴金村が任那4県の割譲で百済に譲渡した裏目から、越前国高向から応神天皇の5代後の末裔とされていますが、ひょっとしてヒスイを財力にしていた縄文人の血を引く豪族ではなかったか。これらは、私の推理ですので学術的な根拠はありません。
勾玉の朝鮮半島南部の分布
2015年12月23日

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