神武天皇の子としては、大和の地に東遷して媛蹈鞴五十鈴媛命(大和征服後、出身氏族が製鉄と深い関係がある在地の豪族の娘)と結ばれ、日子八井命と神八井耳命と神渟名川耳尊を産み、また、神武天皇が日向にいた頃結ばれた吾平津姫(阿多小椅の妹で、隼人に関係がある豪族の娘)との間に手研耳命と岐須美美命がいました。神武天皇が崩去した後、この手研耳命が即位しようとして、日子八井命と神八井耳命と神渟名川耳尊を迫害しようとした「タジキミミの乱」をお越し、結果的に神渟名川耳尊が手研耳命を殺害した。そして、日子八井命と神八井耳命に推薦されて、神渟名川耳尊が第2代綏靖天皇になる。綏靖天皇の兄にあたる神八井耳命を祖としているのが多氏(太、意富、飯富、於保と記載されていることもある)で、子孫には多朝臣、意富臣、小子部連、坂合部連など中央豪族で繁栄した系統、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造など九州を中心に繁栄した系統、科野国造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹波臣、嶋田臣など東国に繁栄した系統があり、国造になっている例も多い。
 『古事記』の中巻の神武天皇の項や『日本書紀』にこのようなことが記されていますが、記紀は飛鳥時代に日本国が形成され、海外(中国)政策の一環として編纂されたので、実際にはその記述を実証する事はできません。ただ、多氏がヤマト朝廷で重要な位置にあり、各地で活躍していたことは、1968年に埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の表裏に記された金象嵌(シリアのダマスカスで生まれ、シルクロード経由で飛鳥時代に日本に伝わった技法で、表面を専用の鏨で布目模様の溝を彫り、薄く延ばし型取りした純金や青金、純銀の板・線をそのくぼみに金槌を使いながら埋め込む。そして、表面の微細な段差をなくし、滑らかに加工するために、漆を塗り、焼きをいれた後に研ぐ。)の115字の銘文からも知ることができます。
金錯銘鉄剣表面の銘文
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
「辛亥の年 7月に記す私はヲワケの臣 いちばんの祖先の名はオホヒコ その子はタカリノスクネ その子の名はテヨカリワケ その子の名はタカヒシワケ その子の名はタサキワケ その子の名はハテヒ」
裏面の銘文
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也
「その子の名はカサヒヨ その子の名はヲワケの臣 先祖代々杖刀人首(大王の親衛隊長)として大王に仕え今に至っている ワカタケル大王(雄略天皇)の役所がシキの宮にある時 私は大王が天下を治めるのを補佐した この何回も鍛えたよく切れる刀を作らせ 私が大王に仕えてきた由来をしるしておくものである」
辛亥年を西暦にすると定説では471年になり、ヲワケの臣とは多氏のことで、オホヒコは『日本書紀』崇神天皇紀に見える四道将軍の1人で北陸に派遣された大彦命のこと。その子孫が雄略天皇に従えたことになる。多氏の中で、関東で活躍した人達はその後、大彦命を祖とする阿倍氏になっていって、「蝦夷征伐」の征夷大将軍や「白村江の戦い」の征新羅将軍の阿倍比羅夫もその一人かも知れない。
金象嵌 金錯銘鉄剣を所持していた人物は不明ですが、雄略天皇は存在していた人物で400年後半に生存していた人物で稲荷山古墳の埋没者なのでしょう。その人物の6代前が大彦命で、おおよそ300年前に大彦命や第10代崇神天皇が生存していたとしたら、紀元1世紀のころが崇神天皇の時代となりますね。大彦命は、第8代孝元天皇の子と記紀にはなっていて、同じように意富の臣を名乗ったとしたら、記紀に書かれている神八井耳命の子孫も意富の臣でしたから矛盾していますね。多氏も弥生時代に朝鮮半島から渡って来て、鉄器に関わりがあった人達だと思います。
2015年11月3日

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