日本の古代史の資料として「古事記」や「日本書記」があり、その記紀に基づいて日本の古代史を学んできていますが、この記紀は飛鳥時代に編纂された書籍で内容的にはその当時の政権の正当性のために書かれ、歴史的事実としては甘い見方をしても記紀が編纂された700年前半から遡る300年程前、400年代の日本の政治的な出来事をその記紀から探ることができない。それ以前は、日本の神話の世界や飛鳥時代に政権を握っていた渡来系の人達の思惑でしかない。紀元前200年頃から300年頃までに朝鮮半島から日本に渡って来た大陸系の人々によって築かれた政権が、はっきりと日本の過去を表示できることはできないので、その人達の大陸の祖先の言い伝えを神話に。また、大陸系といってもいろいろな所からやってきているので、時代の過程で入り組んでいて、とても歴史とは言えないのが現状です。このような時代を日本歴史では、弥生時代としています。
 弥生時代に朝鮮半島から日本に渡って来た人達が、今の日本文化を築いたと言うことも出来ます。しかし、分子人類学からみると、国内最古の人骨(約20,000年~10,000年前)とされた沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡から発掘された旧石器時代の人骨に、日本人の根底に流れているミトコンドリアDNA(母系)の南方系で日本固有種のハプログループM7aが発見されています。また、父系をたどるY染色体では、60,000年前にアフリカのエチオピアやスーダンから紅海を渡ってイランに、そしてチベットから北上して、30,000年~20,000年前にバルカン湖に。或いは、チベットからスンダランドを経て、その人達がハプログループD1を持ち、その人達が15,000年前に大陸と陸続きだった日本にやって来た。そして、日本では縄文時代になる紀元前9,000年前~紀元前1,000年前の間にハプログループD1は、縄文時代に日本人だけしか持っていないハプログループD1bに変化し、現在日本人のY染色体の割合で2割~3割の方がこのハプログループD1bを持っています。沖縄の人が5割、アイヌの人が8割となっています。参考までに、6,300年前に中国中南部で誕生したハプログループO2bは、現在日本人のY染色体の割合で3割の方が持っています。即ち、弥生時代でも古墳時代でも飛鳥時代でも縄文人の染色体は受け継がれていたことになります。
 バルカン湖から南下してきた人達は、最終氷期の最寒冷期(18,000年前)に獲物を求めて日本にやって来ています。そして、獲物が少なくなると狩猟採集生活をはじめ、クリなどの堅果類や芋などの根茎類の栽培や海辺での魚介類の採取もするようになった。そして、縄文時代前・中期の紀元前3,500年~紀元前2,000年頃に青森の三内丸山遺跡のように東北、北海道で縄文人による文化が栄えた。縄文時代早期から丸太舟を作り、手かきで親潮寒流に乗って関東の方まで来ていた縄文人もいて、神津島の黒曜石採取跡のせんき遺跡や伊豆大島に轟B式土器はオオツタノハガイの貝塚がある下高洞遺跡などがある。この辺りで、黒潮暖流に乗ってやって来た南方系の縄文人との交流もあったかも知れない。また、新潟県糸魚川の長者ヶ原遺跡の翡翠の工房から対馬海流にのってヒスイ製勾玉が青森の三内丸山集落や北海道の集落に届けられたりするようになった。この時代、縄文時代前期前半には西日本の縄文人は、対馬海流に乗って九州南部の島々から九州北部、中国地方の西部、山陰地方、朝鮮半島の南岸まで航海をしていた。それを実証するのは、縄文式土器の種類の中で器面の内外にバイガイなどのアルカ櫛文土器属系二枚貝で条痕調整され、外面の上部に細い粘土の紐を数本貼り付けてある轟B式土器が発見されている。また、九州や沖縄から見つかっている曽畑式土器は、遼河文明・興隆窪文化(紀元前6,200年頃-紀元前5,400年頃)の遺跡から発見された櫛歯状の施文具で幾何学的文様を施した櫛目文土器を模作した土器と言われている。縄文時代には、大陸から渡って来た人達がほとんどいない時代ですから、西日本の縄文人が朝鮮半島に渡って、大陸の文化を吸収していたとしか考えられない。また、ヒスイ製勾玉にしても、翡翠は朝鮮半島では採取できないのになぜ、糸魚川産のヒスイ製勾玉が朝鮮半島や大陸でも見つかっているでしょう。
2015年10月7日

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