縄文時代晩期(紀元前900年頃)に日本に住んでいた人々の人口は、小山修三さんによると西日本では10,900人(九州にはその内の6,300人)で、東日本には64,900人(東北にはその内の39,500人)とされている。その当時から水田による稲作が中国からの渡来人によってもたらされた初期の頃です。その頃の中国は、紀元前1,000年頃に周王朝が殷を滅ぼして政権を握った頃で、中国には殷王朝の残党が新天地を求めて、山東半島辺りから九州にやって来た。そして、稲作を伝え、日本に定住。そして、紀元前770年に周の幽王が犬戒に殺されてから、周が東周と西の晋に分裂し、さらに西の晋もさらに紀元前403年に韓、魏、趙に分かれ、東周も実権のない王朝になり、斉、宋、越、呉などの国が戦争に明け暮れた春秋戦国時代が秦の始皇帝が中国を統一する紀元前221年まで、中国の戦乱が続いた。その間に呉や越が滅びたりして、戦乱を逃れて日本に新天地を求めてやって来た渡来人が日本に海航技術や漁業技術を伝え、青銅器なども徐々に伝授された。
 埴原和郎さんによると紀元150年頃には、西日本では292,600人(その内、渡来人が175,600人を占める)で、東日本では302,300人(その内、渡来人が241,800人を占める)となった。縄文人の直系が日本全体では177,500人で、10倍位に人口増加しているが、縄文人と渡来人との混血も増えてきたと考えられる。また、渡来人の合計は417,400人となっている。この結果からも分かるように如何に、中国からの渡来人が多かったかを知ることができる。紀元前206年に秦が滅んでから、秦の残党も日本にやって来て、紀元前100年頃から、中国の北東部にいたワイ人などが前漢の締め付けや鮮卑の侵略から逃れるため朝鮮半島を南下し、その一部が北九州にやって来て住み着いた。
 当然、日本では、縄文人の直系と殷王朝の残党、呉越の残党が住み着いていたところに新たに秦の残党、紅山文化の流れをくむワイ人などの新渡来人も入り乱れて領土問題が発生しても不思議ではない。この辺りが魏志倭人伝で伝えられている倭国大乱になるのでしょう。
 古事記は、天武天皇の時代に『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を稗田阿礼が「誦習」して、太安万侶が書き記し、編纂したもの。天皇家で言い伝えされてきた物語を記載されているので、実際のこともあれば、着色されたり、風化したりで本当のこととは疑い深いですが、言い伝えだけで1,000年以上前のカムヤマトイハレビコが初代天皇になった事実を伝えているとは考え難いし、言い伝えが続いたとしても500年もとなると。古事記で崇神天皇の時代に国の乱れが収まったとある。この国の乱れが紀元前200年頃の倭国大乱ではなかったのではないか。『先代旧辞』や『帝紀』などは推古天皇の時代に厩戸王子によってまとめられた『国記』や『天皇記』と同時期のもので、紀元600年頃に編纂されていると思われます。すると、後漢書によると倭国大乱は桓帝と霊帝の間とされているので、紀元146年から189年頃となると約400年となり、400年という歳月であれば言い伝えも微かに存在するかも知れない。魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の卑弥呼と古事記に出てくる崇神天皇とが同時代の人であったかというとそれも疑問である。
2014年2月23日

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