中国の三大文明の一つに遼河文明があり、紀元前6,200年ごろから満州南部、中国東北の遼河流域で起こった。この文明の中には、興隆窪文化(紀元前6,200年頃~紀元前5,400年頃)、新楽文化(紀元前5,200年頃-紀元前4,800年頃)、趙宝溝文化(紀元前5,400年頃-紀元前4,500年頃)、紅山文化(紀元前4,700年頃~紀元前2,900年頃)、夏家店下層文化(紀元前2,000年頃~紀元前1,500年頃)、夏家店上層文化(紀元前1,100年頃~紀元前500年頃)があります。1,908年に考古学者の鳥居龍蔵が遼河文明の一つである紅山文化を発見したこともあって、紅山文化が遼河文明の中心と考えられます。
 紅山文化の特徴は、墳墓から翡翠や石を彫って動物などの形にした装飾品が多く出土し、紅山文化の玉龍(龍を彫った玉)の造形もたくさん見つかっています。1,983年に遼寧省凌源市から建平県にかけて発見された牛河梁遺跡からは、石の床と彩色を施された壁のあった神殿が見つかり、目が翡翠でできた陶製の女性頭像が発見されたりもしています。翡翠や龍の話は、興隆窪文化から脈々続いてきたのでしょう。興隆窪文化の遺跡からは、中国最古の龍を刻んだヒスイなどの玉製品が発見されているくらいですから。興隆窪文化の以前の遼河地方はどのようだったかは、学問的には語られていません。たぶん翡翠の原産地がロシアの西サヤン山脈やカザフスタン、中国の新疆ウイグル自治区のホータン(和田)地区となる訳で、その地域から遼河地方に流れてきたと考えられます。また、龍においても元々は、ワニではないかという説もあり、ロシアやベラルーシ、ウクライナでは、ドラゴンは悪の存在であり、四本の足を持つ獣とされている。そう高くはないが知性を持ち、しばしば小さな町や村を襲い、金や食物を奪う。頭の数は1〜7つ、もしくはそれ以上であるが、3〜7の頭を持つのがもっとも一般的とされている。この龍の話も中央アジアの遊牧民族の侵攻を度々受けており残っているのでしょう。原始宗教や地母神信仰における自然や不死の象徴として崇められる蛇が神格化された存在になったと思われます。
 この文化の流れが韓国の歴史学者達は、満州にあった扶余が高句麗や百済などを建国したという伝承に紅山文化を関係があると言っているが、果たしてそうでしょうか。「古朝鮮」文明と「遼河文明」を同じと考え、古朝鮮が遼河文明を通じ中国文明を築いたという説も唱えられている。しかし、紅山文化の後を継いだ夏家店下層文化では、少数の金、鉛、漆器、翡翠、銅器、青銅器も見つかっていて、陶器は三足型、銅器・青銅器は耳輪型が多い。骨を使った卜占も行われた。土器・陶器や青銅器の様式などは殷(商)の物とよく似ており、殷文化に属する人々が北東へ移住し、または遼河の文化に属する人々が気候変動によって中原へ南下し殷文化を形成したようです。遼河文明が中国に流れ込んだ感じで、この地域はその後、乾燥化と寒冷化が進み生産様式の異なる牧畜を主とする夏家店上層文化が広まった。この夏家店上層文化では、主に牧畜を行い、農耕や陶器の製作に関する技術は大きく後退して直筒型の形状をした陶器が増え、剣、槍、戈、鏃などの青銅器の出土が増え、装飾が見られないか乏しくなっている。地域的には、内蒙古自治区赤峰市の夏家店遺跡を中心にして、北東の草原から丘陵地帯に居たのちの東胡となる牧畜民が南下した区域で、黒竜江省大慶市肇源県の白金宝遺跡に代表される白金宝文化などと密接な関連があるみたいです。韓国の歴史学者達が「古朝鮮」文明と言っているのは、夏家店上層文化のことを言っているのでしょう。
 日本において、紅山文化がもたらした翡翠や龍の伝説を考えると中国に夏王朝(紀元前2,070年頃~紀元前1,600年頃)の河南省偃師の二里頭村の二里頭遺跡には、トルコ石で表現された龍、銅爵、宮殿区、龍の文様の入った玉璋が発掘されており、二里頭文化も遼河流域の興隆窪文化、紅山文化の影響を受けたと考えられます。そして、夏王朝が殷王朝(紀元前1,600年頃~紀元前1,046年)滅ぼされて、その末裔が日本に渡り、或いは殷王朝が周王朝に滅ぼされて、その殷王朝の末裔が日本に渡って、翡翠や龍の伝説を伝えたと。「古朝鮮」文明が日本に翡翠の勾玉やヤマタノオロチの神話を伝えたとは考えにくい。
2013年12月8日

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