縄文時代の始まりは、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当し、紀元前14,500年頃からと言われています。日本の縄文時代草創期には、鹿児島市にある加栗山遺跡や掃除山遺跡、鹿児島県霧島市にある上野原遺跡があり、縄文時代早期前半には、関東地方の東京都府中市の武蔵台遺跡等があり、縄文時代早期中頃には、北海道函館市の中野B遺跡や静岡県富士宮市の若宮遺跡等があります。縄文時代草創期には、北海道と樺太は陸続きで、冬には津軽海峡と北海道もつながり、本州、四国、九州、種子島、屋久島、対馬はひとつの陸地でした。その頃の植生は冷涼で乾燥した草原が中心であったが、落葉樹の森林も一部で出現していた。その後、温暖化により海面が上昇した結果、先に述べた対馬・朝鮮半島間の水路の幅が広がって朝鮮海峡となり、対馬暖流が日本海に流れ込むこととなった。これにより日本列島の日本海側に豪雪地帯が出現した。そして、その豊富な雪解け水によって日本海側にブナなどの森林が生育して、中国大陸からやって来たかも知れない縄文時代の人々が日本に住み着いた。
 紀元前11,000年頃から紀元前9,000年頃に、ほぼ日本は完全に大陸から離れて、現在の姿と環境を整えた事になったのですが、縄文時代の草創期から早期の遺跡群からみると日本に大陸から土偶や翡翠、龍の逸話をもたらした。土偶の日本の最古のものは、三重県松阪市飯南町粥見井尻遺跡で見つかった紀元前10,000年頃〜紀元前9,000年頃の土偶2点が見つかっています。縄文時代前期中頃から中期末葉の大規模集落跡、青森市の三内丸山遺跡には、土偶だけでなく日本各地域を中心とした交易で得たと推測される黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠などが出土している。
 土偶は櫛目文土器を象徴する製品で、ルーマニア北東部、モルドバ、ウクライナ南西部、黒海北東部からカスピ海北部、コーカサス山脈の北側に栄えたククテニ文化(紀元前5,500年~紀元前2,750年)とか、新石器時代のヨーロッパ北東部、現在のヨーロッパロシア北部とフィンランドを中心とする地域に広まった櫛目文土器文化(紀元前4,200年~紀元前2,000年)にも土偶の文化が存在し、またこの地方では琥珀が大量に取れる土地でもあります。ククテニ文化以前では、紀元前8,500年頃にレバント(エリコ、パレスチナ)に現れるナトゥーフ文化で、野生の穀物を開拓し、農耕を始めた人々が北に進み、ウクライナ南西部などのククテニ文化を築き、西に進んでヨーロッパ北部などの櫛目文土器文化を。さらに東部に進んで、ウクライナ南西部からバクトリア地方から中国の北東部で遼河文明が発生した興隆窪文化(紀元前6,200年~紀元前5,400年)を築いた。日本の粥見井尻遺跡で土偶が紀元前10,000年頃〜紀元前9,000年頃には発見されているということは、ナトゥーフ文化を築いた人達の祖先がすでに野生の穀物を持って、ククテニ文化や興隆窪文化が発展してきた経路をつたって、まだ陸続きの日本にやって来たことに。
 アレクサンドロス3世が、インドの手前まで攻め込んできて、シルクロードの道が開いたと言われているが、紀元前9,000年頃からメソポタミア地方と中国とは農耕技術や銅器、青銅器でつながっていたと考えられる。また、翡翠も中国のタクラマカン砂漠の北側(中国の新疆ウイグル自治区のホータン(和田)地区が産地)に翡翠が取れるところがあります。そこは、バクトリアからウイグル地区に入るところでメソポタミアから流れてくる文化もこの地を通ったと思われます。翡翠で作られた玉龍ですが、龍の崇拝も中国だけのものと考えがちですが、インドの蛇神であり水神でもあるナーガもアーリア人が伝えた龍ですし、ギリシャ神話やキリスト教にもドラゴンがでてきます。日本の翡翠も龍の逸話も基を正せば、紀元前11,000年頃から紀元前9,000年頃にメソポタミア地方から流れてきた文化と一緒に日本にやって来た。ただし、メソポタミアの民族が日本にやって来たというと飛躍になります。各地でメソポタミアの文化が浸透し、それぞれの民族が少しずつ移動し、入れ替わって日本に農耕や土偶や翡翠の文化を伝えた。長い年月を掛けて、人々が移り住んできたのでしょう。
2013年8月13日

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