sansyu_shinki 日本神話では、天津日高彦瓊瓊杵尊が高千穂に天孫降臨する時に、天照大御神が高天原で授けたのが三種の神器(八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣)であると古事記や日本書記に記載されている。天津日高彦瓊瓊杵尊は、神武天皇の曾祖父にあたり、神武天皇が即位されたのが紀元前660年とされている。この頃の日本には、まだ青銅器が伝わっていないので、神武天皇の存在や即位された年代の設定が間違っているのでしょう。
 中国の紀元前660年頃は、春秋時代(紀元前770年~紀元前403年)で、周の幽王が紀元前771年に殺さから、東は斉(周建国の大功臣・太公望を始祖とする)、西は秦(西の戎と戦って勝利し、百里奚などの他国出身者を積極的に起用し、小国を併合して領土を広げた)、南は楚(周から封建された国ではなく、実力により湖北・湖南を押さえて立国した)、北は晋(武公・献公の2代に亘って周辺諸国を併合して大きく伸張した)、その他に宋(殷の遺民たちの国)、鄭(周の宣王の同母弟、姫友の国)、呉(周王朝の祖、古公亶父の長子の太伯と次弟の虞仲の国、句呉)、越(長江流域の百越に属する民族の国)などに分かれた時代です。ここで、三種の神器に関係している国は、秦、晋(戦国時代の魏、韓、趙)、斉だと思います。
 魏志倭人伝によると邪馬台国女王の臺與が魏へ勾玉を進呈しているが、その勾玉は翡翠であったとされることから、三種の神器のひとつ、八尺瓊勾玉の素材は翡翠であったと推測される。この翡翠を装飾品として扱っていたのが、河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部に紀元前4,700年頃から紀元前2,900年頃に存在した紅山文化で、墳墓からは、動物の形をした翡翠(中国の新疆ウイグル自治区のホータン(和田)地区が産地)の装飾品が多く出土し、特に龍の形で円形になっている玉龍が発見され、中国の龍の崇拝は、この紅山文化から来ている。また、紅山文化の末期には青銅の環も発見されている。
dragon 紅山文化が栄えた西には、タクラマカン砂漠、そしてバクトリア地方がありますから、インドやペルシアの青銅器や龍(ドラゴン)の崇拝の文化が流れて来ても不思議ではない。そして、紀元前2,900年頃から紀元前600年頃までに、紅山文化が栄えた地域には夏家店下層文化(紀元前2,000年~紀元前1,500年頃)が続き、この文化を支えた人々が砂漠地帯を西に向かった。そして、内モンゴル南部のオルドス地方にオルドス青銅器文化(紀元前500年頃~紀元前後の頃)を築いた。その頃には、紀元前900年頃に秦の祖、非子が張家川回族自治県一帯(甘粛省天水市)で勢力を伸ばしていた秦がこのオルドス青銅器文化や、タクラマカン砂漠やチベットから流れてくる文化を取り入れ、秦の始皇帝(紀元前246年~紀元前210年)が中国を統一し、陝西省西安北東30kmの驪山北側(臨潼区)にある秦の始皇帝陵には、兵馬俑坑が3抗あり、戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8,000体、みんな東を向いている。秦の代々の国王は、主に西戎と抗争しながら領土を広げ、西域の人々や北のオルドス地方の人々を国内に住ませていたようです。秦の陵からそれらの人々の骨も発見されています。
 秦の始皇帝は、不老不死の薬(水銀)を求めて全国を巡回し、斉国の琅邪の出身の徐福に巡り合う。そして、徐福の命により秦の文化を持った人々が日本に渡り、また秦が前漢の武帝に滅ぼされてから、秦の人々は燕の国から朝鮮半島に移住し、朝鮮半島から日本に渡ってきた。この人々が秦氏を名乗り、神社の建立から前方後円墳を築きあげた。日本で採取できる翡翠で勾玉を作り、青銅器で鏡を作り、鉄鉱石から剣を作ったのでしょう。
 日本神話に出てくる天照大御神の話や高天原の話は、秦の北にいた紅山文化の流れを汲む人々の話ではないでしょうか。また、神武天皇が存在していたかどうかは分かりませんが、存在していたとすると秦の人々が日本に渡って来た頃、紀元前1世紀から紀元1世紀位の人物ではないかと思われます。
2013年4月29日

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