中国の神話に三皇五帝の話があります。その神話で登場する人物に三皇の一人、神農(炎帝)がいます。神農は、紀元前2,740年頃の古代中国の王で120歳まで生きたと言われています。この頃、中国では新石器時代の仰韶文化(紀元前5,000年頃~紀元前3,000年頃)が河南省、陝西省および山西省に広がっていました。その後、黄帝((紀元前2,510年~紀元前2,448年)は、長江文明の良渚文化(紀元前3,500年頃~紀元前2,200年頃)の象徴として扱われ、ミャオ族が中心になっていた新石器時代後期の龍山文化(紀元前3,000年頃~紀元前2,000年頃)との争いがあり、黄帝を代表とする長江勢力が北上して、中国の中華思想の中心地、中原を占領する。この勢力が、夏王朝(紀元前2,070年頃~紀元前1,600年頃)を築く。なお、龍山文化は黄河流域の地形に合わせて、中原の河南龍山文化、渭河沿いの陝西龍山文化、黄河最下流の山東龍山文化など地域ごとにさまざまに分化して、特に後期には、渭河沿いが後にシルクロードの交易路の起点となっていく。そして、龍山文化後期には、西域から青銅器文化が流れてくる。
 中国の中華思想には、四方に居住していた異民族に対して四夷と言って、東夷、北狄、西戎、南蛮と表現しています。
 東夷は、周王朝以前では江蘇省や山東省あたりの人々。黄帝(紀元前2,510年~紀元前2,448年)が蚩尤と大戦争になり、涿鹿(河北省張家口市付近)の戦いで勝利を治め、蚩尤に味方したミャオ族の祖、九黎族の人々を東夷と言った。秦以降は中国東北部の夫餘国、高句麗、東沃沮、北沃沮、肅慎氏(挹婁)、濊、韓(三韓)、倭人(倭国)、百済国、加羅国、勿吉国(靺鞨)、失韋国(室韋)、豆莫婁国、地豆于国、庫莫奚国(奚)、契丹国、烏洛侯国、裨離国、養雲国、寇莫汗国、一群国、新羅、琉求国(流求国)、日本国、流鬼を指すようになりました。
 北狄は、周王朝以前ではユーラシア中北部のヴォルガ川、アラル海からシベリア南部のエニセイ川上流域にかけて栄えたカラスク文化(紀元前1,500年~800年頃)の人々。このカラスク文化は、アファナシェヴォ文化、アンドロノヴォ文化と同地域に栄え青銅器時代に属します。また、満州南部、中国東北の遼河流域で起こった遼河文明の興隆窪文化(紀元前6,200年頃~紀元前5,400年頃)から河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部掛けての紅山文化(紀元前4,700年頃~紀元前2,900年頃)の新石器時代の文化の後、中国東北部、北西は内蒙古自治区東部のシラムレン川北岸から張家口にかけて、南東は河北省北部から遼寧省西部を中心とした夏家店下層文化(紀元前2,000年~紀元前1,500年頃)で青銅器が見つかっています。オルドス青銅器文化(紀元前500年頃~紀元前後の頃)は、そのカラスク文化を支えた人々が南下し、またその地方に根付いていた夏家店下層文化をもとに、内モンゴル南部のオルドス地方など、陰山山脈と万里の長城にはさまれた地域に栄えた。春秋・戦国時代の中国で北狄と言われたのが、オルドス青銅器文化の人々のことです。この地域に青銅器が取り入れられたのは、遊牧民族の特性を生かしてアンドロノヴォ文化の地域やサカ人(塞族)が支配するバクトリア地方にまで移動していたのでしょう。そして、秦の時代から漢の時代に掛けて、オルドス地方にもスキタイと関係がある匈奴がこの地域を支配するようになって、匈奴が北狄と言われるようになりました。また、内モンゴルを支配していた匈奴の北には、内モンゴル東部から満州西部に住んでいた遊牧民族、東胡がいました。この東胡は、殷王朝晩期に遼西で栄えた夏家店下層文化を征服して断続的に入れ替わった遊牧生活を営んでいた集団のうち、故地に残留した部族が東胡の祖と言われています。東胡には、紅山文化から夏家店下層文化の継承と夏家店下層文化崩壊後に殷王朝からの侵略により、青銅器文化が伝わったと考えられます。
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 西戎は、殷王朝が夏王朝を倒すため、戦車(スポール型車輪のついたチャリオット)を使っていますので、殷王朝にはアンドロノヴォ文化のシンタシュタ・ペトロフカ・アルカイム文化時代の影響があると思われ、古代ペルシアのゾロアスター教のも影響を受けた人々のことです。チベット族、納西族、羌族の先祖と言われている古羌がタクラマカン砂漠の周辺にいた。その砂漠より西に行くと中央アジアのアムダリヤ川とシルダリヤ川の中間に位置し、サマルカンドを中心的な都市とするザラフシャン川流域地方のソグディアナがあり、イラン系のオアシス灌漑農耕民族、ソグド人やサカ人が住んでいた。周王朝の武王が殷王朝の紂王を滅ぼした時に陝西省・四川省から甘粛省・チベット自治区の付近にいた羌、葷粥、氐族の西戎が協力している。しかし、周王朝の幽王の時代に西戎の犬戎が氾濫を起こして、春秋時代に入り、秦の穆公は、度々戎を討った。その後も何度か秦と衝突し、最後には秦に吸収され、一部は匈奴に吸収された。その西戎の民族がチベット族や彝族とみられている。春秋・戦国時代に掛けて、西戎の人々はタクラマカン砂漠の周辺にいたチベット族、納西族、羌族、彝族、葷粥、氐族でした。その中で、敦煌付近にいた月氏が勢力を広げ、北の匈奴と戦い、漢の孝文帝(在位:前180年~前157年)の時代になって匈奴右賢王の征討に遭い、月氏王が殺され、月氏は二手に分かれ、ひとつがイシク湖周辺へ逃れて大月氏となり、もうひとつが南山羌(現在の青海省)に留まって小月氏となった。このように、西戎にはアンドロノヴォ文化を築いた人達の一部が流れ込み、または古代ペルシア文化をもったソグディアナにいたソグド人やサカ人もいた。そして、古代からこの地にいたチベット族や羌族と交じり合って月氏のような人々がタクラマカン砂漠の周辺にいたことになる。そのような環境で青銅器は西域から中国に伝わった。
 最後に、南蛮は、インドでドラヴィダ人によって築かれたインダス文明(紀元前2,600年~紀元前1,800年)によって、メソポタミア地方から青銅器が伝わり、このドラヴィダ人は、紀元前1,200年頃に起きたアーリア人の侵入によって、被支配民族となり一部が南インドに移住し、さらに東南アジアに移動し、東南アジアの人々と交わった。そして、ドラヴィダ人は海に精通していたので、黄帝と戦った敗北し、南下したミャオ族(苗族)などと交わったのではないかと思われる。殷王朝を滅ぼした周王朝の祖、古公亶父がいました。その子に太伯・虞仲・季歴がいましたが、太伯・虞仲は弟の季歴に周王朝を譲って、南の荊蛮の地に句呉の国を建国した。その地にいた人達が黎族(リー族)です。この黎族は水軍をもつ人々で、ドラヴィダ人と何らかの関係があったようです。東南アジア最古の青銅器文化として知られるドンソン文化(紀元前300頃~紀元100年頃)を発達させキン族もドラヴィダ人と何らかの関係があったと思われます。
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 日本に関係がある中国からの渡来人は、紀元前400年頃から南蛮の呉や越の国からやって来た。そして、紀元前100年頃から朝鮮半島からやって来ます。その渡来人は西域から時代を潜り向け、日本に渡って来たのでしょう。西域の青銅器文化を持って。
2013年4月4日

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