青銅器時代は、古代ギリシャ、メソポタミア、エジプト、中央アジア、中国の地域によって、年代が左右します。紀元前4,000年頃に青銅器が誕生し、紀元前3,500年頃からメソポタミア、エジプト、古代ギリシャと青銅器の文化が生まれました。
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 古代ギリシャでは、ミケーネ文化(紀元前1,450年~紀元前1,150年)の時期に青銅器による繁栄を得た。古代ギリシャ人中には、紀元前2,000年頃イオニア人がエーゲ海北部やアナトリア半島から、紀元前1,400年頃からテッサリアからペロポネソス半島に移ってきたアカイア人がクレタ島北部やイタリア半島南部、シチリア島、チュニジアのキュニプス、リビアのキュレネとアポロニア、エジプトのナウクラティス、アナトリア半島北岸を含む黒海沿岸全域に植民市を築いた。そして、イタリア半島のエトルリアから錫を、黒海から穀物を交易して繁栄していた。アナトリア半島では、紀元前1,700年頃までアッシリアの植民地であったが、アナトリア半島に鉄鉱石があることを知ったインド・アーリア人とイラン・アーリア人の混合が住み着き、紀元前1,680年にヒッタイト古王国が建国され鉄器が誕生する。その後、紀元前1,200年頃にアーリア人系のゲルマン人やケント人がバチカン半島に進入し、バチカン半島にいたドーリア人が南下して、ペロポネソス半島に移ってきた。
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 また、イタリア半島のエトルリア人などが海の民となって、エーゲ海の沿岸で大暴れしたため、古代ギリシャのミケーネ文化やヒッタイト帝国は紀元前1,150年頃に崩壊した。ミケーネ文化を築いたアカイア人の一部は黒海の方に向かい、海の民に同化した者もいた。これにより、古代ギリシャの青銅器時代は終結する。
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 中央アジアでは、北西インドにいたインド・アーリア人とカスピ海南部にいたイラン・アーリア人混合がアンドロノヴォ文化(紀元前2,300年頃~紀元前1,000年頃)を築いた後、中央アジアステップ地帯からシベリア南部に残ったアーリア人と土着の民族とが混血して、ヴォルガ川、アラル海からシベリア南部のエニセイ川上流域にカラスク文化(紀元前1,500年~紀元前800年)を築いた。古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは著書『歴史』によると、紀元前600年以前に、東方のアリマスポイ人はイッセドネス人を西方に押し遣り、そのイッセドネス人はスキタイ人を南西に、スキタイ人が移ったところにマッサゲタイ人がいて、アラクセス河(ヴォルガ川)を渡りキンメリア地方(黒海北岸)に、そこにはキンメリア人がいた。スキタイ人は、キンメリア人を黒海北岸から追い出した。それから、キンメリア人を追いかけ南下したが、西アジアにおいて、メディア王のキュアクサレス2世がアッシリアと戦い、ニノスの町を攻囲していた時、スキタイはメディアを強襲し、交戦の末にメディアを破って全アジアを席捲した。スキタイは北の草原地帯からキンメリア人を駆逐し、それを追ってコーカサス山脈の東側からアジアに侵入してきたのであるが、この地ではちょうどアッシリア帝国からの独立運動が盛んで、メディアがアッシリアを攻撃している最中であったため、スキタイはそのすきを狙ってメディアを破り、続いてエジプトを目指して南下した。スキタイがパレスチナ・シリアまで来た時、エジプトの王が自ら出向いて贈り物と泣き落とし戦術でもってスキタイの進軍を思いとどまらせたため、スキタイは後戻りしてアジアを28年間統治することとなった。このスキタイのアジア統治は乱暴で投げやりなものであり、住民の一人一人に課税して取り立て、貢税のほかに各地を回って個人の資財を略奪したので、中央アジアは荒廃に帰してしまった。そのためメディア人の怒りを買い、メディアはスキタイたちを宴席に呼んで殺害し、スキタイの大部分を駆逐することに成功し、メディアは再びアジアを取り戻すことができた。キンメリア人は黒海を南下し、西方のアッシリア地方からアナトリア半島に移り住んだ。紀元前600年頃には、スキタイは黒海北部で、カッリピダイ(ギリシャ系スキタイ)、農耕スキタイ(スキタイ・アロテレス)、農民スキタイ(スキタイ・ゲオルゴイ)、遊牧スキタイ(スキタイ・ノマデス)、王族スイ(スキタイ・バシレイオス)、別種のスキタイ、エナレスに分かれる。その当時、スキタイ以外に中央アジアからシベリア南部にいたのは、オホーツク海にぶちあたる東端からヒュペルボレオイ(極北人)、アリマスポイ、イッセドネス、マッサゲタイ、アルギッパイオイ(禿頭族)、イユルカイ、テュッサゲタイ、ブディノイ、サウロマタイがいた。
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 中央アジアでアンドロノヴォ文化の後、カラスク文化を経て、内モンゴル南部のオルドス地方など、陰山山脈と万里の長城にはさまれた地域に栄えたオルドス青銅器文化(紀元前700年頃~紀元前100年頃)まで青銅器時代が続く。このオルドス青銅器文化は、狄、月氏や、特に匈奴と関係と言われ、スキタイの流れを汲むのではないか。中国では、青銅器を使用し始めたのが、殷王朝(紀元前1,600年頃~紀元前1,046年)。この殷王朝がsaka夏王朝を滅ぼすのに戦車(チャリオット)を使った。この戦車を最初に作ったのがアンドロノヴォ文化のアーリア人ですから、殷王朝とアーリア人には何らかの関係があったのでしょう。戎は周王朝の幽王を殺害し、平王の洛邑遷都の際に平王を襲ったが、秦の襄公によって妨害された。これ以降、秦は周王朝の諸侯のひとつとなり、岐山以西に封じられ、平王が周王朝の首都鎬京を洛邑に遷都して、中国は春秋時代(紀元前770年~紀元前403年)になった。また、周王朝が洛邑に遷都した頃、オルドス青銅器文化を築いた狄の中で、河北や山西などの長城沿いに居た白狄は南下して、中山と呼ばれる強大な狄人国家を建てた。その後、中山国は趙によって滅ぼされる。紀元前600年の後半に古代ペルシアのアケメネス朝が古代ギリシャを攻撃し、エジプトやアッシリアなどが征服した後、東に向かった。そこにはカサイのスキタイがいて、激しく抵抗したとあります。このカサイの一部が南下して、インドに入り、仏教の開祖、釈尊の釈迦族になったという説もある。そのカサイが周の幽王を殺害した西戒と思われる。中国では西戒のスキタイ系が齎した青銅器文化に影響を受けた。秦の始皇帝稜から、西洋系の人骨が発見されたくらいですから。戦国時代(紀元前403年~紀元前221年)頃には、西戒が中国に残って、チベット族、彝族、羌族になり、北方に移動して匈奴になる。秦の始皇帝は北方の匈奴の侵略を防ぐため、万里の長城を築くことになる。中国で最初に鉄器を使用したのは、戦国時代の呉・越からですが、本格的に鉄器を使い出したのは前漢の頃からです。だから、日本に青銅器と鉄器が入ってきたのが、紀元前200
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年頃から紀元100年位なので、時代的に変わらなかったし、古代ギリシャでは紀元前1,200年頃には青銅器の替わりに鉄器が使われるようになったのに比べて、1,000年も遅れていることになる。
2012年12月29日

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