日本の古代史と言うと、古墳時代から飛鳥時代のことを指すのだろうか。私は、さらに前の時代を知りたくて、古事記を読み始めました。もう、6年程前になりますが、三浦佑之先生の口語訳 古事記を読破した時、どうしても理解できなかった箇所がありました。それは、人代篇の其の五「ホムダワケとオホササギ――河内王朝の成立」でホムダワケ、すなわち応神天皇の事を記載されているのですが、後半に、つぎの文面がでてきます。
さて、またここで、ホムダワケの大君が生きておった頃の伝えにもどるのじゃが、昔のことで時は定かでないが、この大君の御世じゃ。新羅の国の国王の子があっての、名は、アメノヒボコと言うた。その人が海を渡って来たのじゃ。その参り渡り来たわけというのは、こうじゃった。
新羅の国に、一つの沼があったのじゃ。名は、アグヌマとか言うた。この沼のほとりで、一人の賤しい女が昼寝をしておった。すると、日の光が虹のごとくに輝いてかと思うと、その女の陰のあたりを刺したのじゃ。
また、その沼のほとりには、ほかに一人の賤しい男がおっての、女の陰に日の光が刺すのをみておって、それを怪しいことじゃと思うて、それからいつもその女の振る舞いを見守っておったのじゃ。
すると、この女は、孕みでもしたか昼寝をした時から腹が大きくなってきての、しばらくすると赤い玉を一つ産んだのじゃ。それで、ずっと女を窺い続けておった賤しい男は、その玉を見て宝の石じゃとでも思うたのかの、うまくだまして奪い取り、いつも布に包んで腰に下げておった。
この男は、田を山の谷間に持っておった。それで、田で働く者らに飲み物と食べ物を持って行こうとして牛の背に載せての、山の谷間に入って行ったのじゃった。その時に、国王の子のアメノヒボコに逢うたのじゃ。
するとアメノヒボコは、その男に、
「どうして、なんじは飲み物と食べ物とを牛の背に負わせて、谷に入って行くのだ。なんじは、かならずや、この牛を殺して食おうというのだろう。」と言うて、すぐさまその男を捕らえて、獄囚に入れようとした。それで、その男はあわてて、
「わしは、牛を殺そうとしているのではござらぬ。ただ、田で働く者らに食べ物を届けるところでござる。」と言うた。それでも、ヒボコは許してはくれないのじゃ。そこで、その腰にいつも下げておった赤い玉をはずして、その国王の子に袖の下として贈ったのじゃった。
差し出された玉を見たヒボコはその賤しい男を許し、その玉を持ち来ての、おのれの床のそばに置いておくと、知らぬ間にうるわしいおとめに変わっておった。それでヒボコは喜んで、そのおとめをすぐさま抱いての、おのれの妻にしたのじゃった。
おとめは、つねにヒボコによく仕えての、いろいろなうまい物を作って夫に食わせておった。ところが、国王の子はそれに慣れてしもうて心が驕り高ぶっての、妻を罵ったりするので、ついに女が怒って言うた。
「およそ、わたくしは、あなたの妻などになっている女ではありません。わたくしの祖の国にいかせていただきます。」と、そう言うやいなや、密かに小舟に乗って、この国に逃げ渡って来ての、難波に留まり住んだのじゃ。
これが、難波の比売碁曾の社に坐すアカルヒメという神じゃ。
アカルヒメがアメノヒボコのいる新羅から逃れて、最初に九州の大分の比売島に到着し、さらに摂津(現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)に居を移した。それが、大阪の西淀川区の姫島神社の辺りに移ったらしい。アメノヒボコはアカルヒメを探し求めて、難波まで渡って来たが、逢うことができずに但馬国に着き、そこでタヂマノマタヲの娘のマヘツミを妻にしてタヂマモロスクを生み、その子がタヂマヒネ。その子がタヂマヒナラキ。その子がタヂマモリ(田道間守)とタヂマヒタカとキヨヒコ。キヨヒコの娘がカヅラギノタカヌカヒメ。そのカヅラギノタカヌカヒメの娘がオキナガタラシヒメ。神功皇后です。神功皇后と仲哀天皇の子が応神天皇ですから、古事記に記載されている応神天皇の頃の出来事としては、不適切です。なぜ、このような記事を載せたのでしょう。
日本書記には、アメノヒボコは垂仁天皇の頃に記載されている。紀元1世紀頃の話であり、新羅の国王の子と古事記ではなっているが、日本書記では弁韓の加耶の国王の子となっている。新羅が建国したのが、紀元356年。でも、新羅の前身は辰韓の斯蘆国。斯蘆国を建国したのが、赫居世居西干(在位:紀元前69年ー紀元4年)で朴氏。それから4代目が脱解尼師今(在位:紀元57年ー紀元80年)の昔氏で、倭人と言われ、昔脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、出生地を日本列島内に所在すると見る向きが多く、丹波国、但馬国、肥後国玉名郡などに比定する説がある。神功皇后が三韓征伐を行ったのが紀元200年頃。もし、アメノヒボコが昔脱解と関係があったとしても紀元1世紀の人となり、第7代孝霊天皇の時代という説もある。また、昔脱解は、神武天皇の兄のイナヒではないかという説を唱える人もいます。その他にも、これは論外だとおもいますが、アカルヒメが邪馬台国の卑弥呼だと言う説を唱える人も現れました。
古事記で応神天皇のご時勢にアメノヒボコの神話が記載されているのは、時代感覚がずれているようです。でも、神功皇后が新羅と関係があり、その関係もあってアメノヒボコの神話を載せたのでしょうか。日本書記のようにアメノヒボコが弁韓の加耶の国の人だとしても、紀元前1世紀から紀元2世紀の間で、倭国、または大和朝廷は弁韓の加耶諸国や辰韓の斯蘆国と深い関係があったことは事実です。
2012年11月25日
原始ブログ集まれ。
隠された古代史を探索する会
さて、またここで、ホムダワケの大君が生きておった頃の伝えにもどるのじゃが、昔のことで時は定かでないが、この大君の御世じゃ。新羅の国の国王の子があっての、名は、アメノヒボコと言うた。その人が海を渡って来たのじゃ。その参り渡り来たわけというのは、こうじゃった。
新羅の国に、一つの沼があったのじゃ。名は、アグヌマとか言うた。この沼のほとりで、一人の賤しい女が昼寝をしておった。すると、日の光が虹のごとくに輝いてかと思うと、その女の陰のあたりを刺したのじゃ。
また、その沼のほとりには、ほかに一人の賤しい男がおっての、女の陰に日の光が刺すのをみておって、それを怪しいことじゃと思うて、それからいつもその女の振る舞いを見守っておったのじゃ。
すると、この女は、孕みでもしたか昼寝をした時から腹が大きくなってきての、しばらくすると赤い玉を一つ産んだのじゃ。それで、ずっと女を窺い続けておった賤しい男は、その玉を見て宝の石じゃとでも思うたのかの、うまくだまして奪い取り、いつも布に包んで腰に下げておった。
この男は、田を山の谷間に持っておった。それで、田で働く者らに飲み物と食べ物を持って行こうとして牛の背に載せての、山の谷間に入って行ったのじゃった。その時に、国王の子のアメノヒボコに逢うたのじゃ。
するとアメノヒボコは、その男に、
「どうして、なんじは飲み物と食べ物とを牛の背に負わせて、谷に入って行くのだ。なんじは、かならずや、この牛を殺して食おうというのだろう。」と言うて、すぐさまその男を捕らえて、獄囚に入れようとした。それで、その男はあわてて、
「わしは、牛を殺そうとしているのではござらぬ。ただ、田で働く者らに食べ物を届けるところでござる。」と言うた。それでも、ヒボコは許してはくれないのじゃ。そこで、その腰にいつも下げておった赤い玉をはずして、その国王の子に袖の下として贈ったのじゃった。
差し出された玉を見たヒボコはその賤しい男を許し、その玉を持ち来ての、おのれの床のそばに置いておくと、知らぬ間にうるわしいおとめに変わっておった。それでヒボコは喜んで、そのおとめをすぐさま抱いての、おのれの妻にしたのじゃった。
おとめは、つねにヒボコによく仕えての、いろいろなうまい物を作って夫に食わせておった。ところが、国王の子はそれに慣れてしもうて心が驕り高ぶっての、妻を罵ったりするので、ついに女が怒って言うた。
「およそ、わたくしは、あなたの妻などになっている女ではありません。わたくしの祖の国にいかせていただきます。」と、そう言うやいなや、密かに小舟に乗って、この国に逃げ渡って来ての、難波に留まり住んだのじゃ。
これが、難波の比売碁曾の社に坐すアカルヒメという神じゃ。
アカルヒメがアメノヒボコのいる新羅から逃れて、最初に九州の大分の比売島に到着し、さらに摂津(現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)に居を移した。それが、大阪の西淀川区の姫島神社の辺りに移ったらしい。アメノヒボコはアカルヒメを探し求めて、難波まで渡って来たが、逢うことができずに但馬国に着き、そこでタヂマノマタヲの娘のマヘツミを妻にしてタヂマモロスクを生み、その子がタヂマヒネ。その子がタヂマヒナラキ。その子がタヂマモリ(田道間守)とタヂマヒタカとキヨヒコ。キヨヒコの娘がカヅラギノタカヌカヒメ。そのカヅラギノタカヌカヒメの娘がオキナガタラシヒメ。神功皇后です。神功皇后と仲哀天皇の子が応神天皇ですから、古事記に記載されている応神天皇の頃の出来事としては、不適切です。なぜ、このような記事を載せたのでしょう。
日本書記には、アメノヒボコは垂仁天皇の頃に記載されている。紀元1世紀頃の話であり、新羅の国王の子と古事記ではなっているが、日本書記では弁韓の加耶の国王の子となっている。新羅が建国したのが、紀元356年。でも、新羅の前身は辰韓の斯蘆国。斯蘆国を建国したのが、赫居世居西干(在位:紀元前69年ー紀元4年)で朴氏。それから4代目が脱解尼師今(在位:紀元57年ー紀元80年)の昔氏で、倭人と言われ、昔脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、出生地を日本列島内に所在すると見る向きが多く、丹波国、但馬国、肥後国玉名郡などに比定する説がある。神功皇后が三韓征伐を行ったのが紀元200年頃。もし、アメノヒボコが昔脱解と関係があったとしても紀元1世紀の人となり、第7代孝霊天皇の時代という説もある。また、昔脱解は、神武天皇の兄のイナヒではないかという説を唱える人もいます。その他にも、これは論外だとおもいますが、アカルヒメが邪馬台国の卑弥呼だと言う説を唱える人も現れました。
古事記で応神天皇のご時勢にアメノヒボコの神話が記載されているのは、時代感覚がずれているようです。でも、神功皇后が新羅と関係があり、その関係もあってアメノヒボコの神話を載せたのでしょうか。日本書記のようにアメノヒボコが弁韓の加耶の国の人だとしても、紀元前1世紀から紀元2世紀の間で、倭国、または大和朝廷は弁韓の加耶諸国や辰韓の斯蘆国と深い関係があったことは事実です。
2012年11月25日
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