青森から鹿児島に至る各地で徐福の伝説があり、徐福のゆかりの地として有名なのが、佐賀県佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市、宮崎県延岡などです。では、中国において徐福はどのような人物だったのでしょうか。
 徐福は春秋戦国時代の斉の国の人で、現代の山東省の生まれです。この山東省泰安市に泰山という山があり、不老不死の思想、仙術を使い仙人になる教え、道教の聖地があります。紀元前219年に中国を統一し、老化しても現在の境遇を、死後においても永遠の地位を望むようになっていた秦の始皇帝が第1回目の天下巡遊として、泰山を訪れ、封禅の儀(帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が太平であることを感謝する儀式)を行った後、神仙思想に出会う。そして、不老不死を唱える方士が現れ、始皇帝に面談してきた。泰山を経て、始皇帝の刻石を建てるため琅邪(山東省諸城市)に着いた時、方士の一人、琅邪出身の徐福が始皇帝に面談し、海の東方に三神山(蓬莱、方丈、瀛州)があり、そこには1,000歳の仙人がいて、不老不死の霊薬があると進言し、始皇帝から巨額の金銀を譲り受けた。翌年、始皇帝は第2回目の天下巡遊を行い、琅邪に立ち寄った。そして、徐福に会いその後の状況を問い質したところ、風に邪魔されて航海に失敗した事を告げ、ついに徐福自ら、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、朝鮮半島経由で日本に辿り着いた。日本に不老不死の霊薬など有るわけがなく、徐福はそのまま日本に住み着き、王になった。このようなことが司馬遷の「史記」に記載されている。そして、紀元前210年に始皇帝は第4回目の天下巡遊で、平原津(山東省平原県)で病気になり、沙丘(河北省平郷県)で死去した。病気の原因は、不老の妙薬と言われていた水銀の中毒だった。
 日本の伝説では、徐福が中国の文化を伝えたとなっているが、実際はそうであったかは疑問に思います。徐福は歴史上の人物であることは確かですが、日本に住み着いて、王にまでなったのでしょうか。朝鮮半島にも徐福の伝説はあります。中国で徐福が東方に不老不死の島があることを山東省にいた人々に訴えたのではないでしょうか。秦の始皇帝の凶行政治に耐えられなくなった斉や燕の庶民が、当時の神仙思想に憧れて、朝鮮半島に逃れ、南朝鮮で辰国を建国し、日本に渡ってきた。それと、秦の始皇帝が不老不死の妙薬、水銀を求めて日本にやって来た者もいるかも知れません。
 秦の始皇帝の時代から後漢の光武帝の時代までに、北九州や出雲に青銅器、鉄器、陶器、貨幣等の中国の文化が流れ込み、朝鮮半島の南端で交易が盛んになった。大和朝廷の氏族の中で、秦氏などは秦からの遺民で、三韓時代の辰韓(秦韓)や弁韓の加羅から渡ってきたと言われ、古墳の埴輪を発明した土師氏も出雲や吉備の土着した豪族ですが、元は秦の遺民かも知れない。秦氏にしても、土師氏にしても土木を得意としていた豪族ですから。秦の始皇帝陵や万里の長城や兵馬俑などを作った秦の遺民であれば、日本の古墳など容易なことだったのでしょう。
2012年10月3日

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