最近の考古学のニュースで「2,400年前の水田跡を発掘」の記事を基に古代中国史や日本神話の観点から、水田による稲作が日本に渡って来た時期を考えてみました。11月8日に県立橿原考古学研究所が、奈良県御所市條(じょう)の中西遺跡で、紀元前400年頃の13,000㎡もの水田跡を出土したと発表した。この中西遺跡では、以前にも7,000㎡の水田跡が確認されており、今回の出土と合わせて20,000㎡となり、中西遺跡の隣の秋津遺跡の水田跡を加えると24,000㎡となり、弥生時代前期の水田跡としては、滋賀県守山市の服部遺跡、大阪府八尾市、東大阪市の池島・福万寺遺跡を抜いて、日本最大の水田跡になった。
 今回の発掘で、標準的な水田が3×4メートルの周囲をあぜで囲まれています。この標準の水田跡が850箇所も出土したそうです。中西遺跡と秋津遺跡の水田跡のすべてがこの標準の水田跡だとすると、2,000箇所もあったことになり、 一世帯で3×4メートルの水田を管理していたとすると、この地域(24,000㎡ですから、東京ドームの半分位の広さ)に2,000世帯が生活していたことになる。また、この当時の生活環境として、一部の人が権力を持って支配するのではなくて、標準の面積の水田を持ち、ここの生活を営んでいたようにも見受けられる。
 水田による稲作が日本で行われるようになったのは、縄文時代晩期から弥生時代前期(紀元前1,000年~紀元前400年)ころと言われていますが、中国で周王朝は紀元前1046年に昌(文王)の次男の発(武王)が殷の帝辛を倒して建国したのですが、昌の父が季歴、祖父が古公亶父。古公亶父の子には季歴(3男)の他に太伯(長男)、虞仲(次男)がいて、この二人が呉を建国した。また、殷を倒した発を助けた呂尚(太公望:斉の祖)と周公旦(発の弟:魯の祖)や発の兄弟から、姓が姫と名乗る春秋戦国時代の国となっていく。
 日本語の読み方として、漢音読み、呉音読み、訓読みがあるのですが、この呉音読みに中国の春秋戦国時代の呉、越の文化が倭に水田技術と一緒に入って来たとしても不思議ではない。発が伯父である太伯、虞仲を周王朝に呼び戻そうとしたのですが、太伯、虞仲は刺青をして野蛮人になり、周王朝に戻らなかった。この刺青も海に素潜りする時に魚を威圧するために行なわれたと言われている。大和朝廷の久米一族やそれ以外の海航系の豪族は、呉、越出身かも知れない。
 日本神話で、アマテラスが高天の原(周王朝の朝廷)でマサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミと相談して、子のアメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギに米の種を与え、葦原の瑞穂の国(倭)を治めるために高千穂に天孫降臨した。また、神武天皇が大和朝廷を樹立するため東征した時期が紀元前660年とされているのも、水田による稲作が日本に渡って来た時期とダブってくるように思えてならない。
2011年11月21日

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