以前、いにしえララバイのブログ記事で「日本人の氏名は何時頃から使われるようになったか。」で、日本人の氏名が何時ごろから使われ出したかを記事にしましたが、最近中国の古代史を研究していると、日本人が使っている姓は、中国では民族を表していることが分かりました。また、氏は中国ではこれらの民族の中で、職業集団とか部族の一員として付けられたようです。
 紀元前3,000年~2,500年前ごろに、すでに中国では姓が存在していました。中国の神話に三皇五帝の話がありますが、この中の三皇のひとりに炎帝神農氏がおられ、農耕の神様、漢方薬の神様として、夏王朝の前に中国ではじめて皇帝についた人物です。これは神話の世界ですので、実際に皇帝に就いたかは定かでないですが。この炎帝神農氏の姓が姜(きょう)と言います。また、炎帝神農氏は中国の湖北省あたりで生まれ、揚子江から発生した文化を持ち、最初に稲作をはじめた民族の出身でした。
 炎帝神農氏の後、五帝のひとりに黄帝がおられ、医療の神様として知られ、炎帝神農氏の子孫、蚩尤と涿鹿の戦いで勝利し、中国の皇帝についた人物です。この黄帝の子孫が夏、殷、周の王朝を築いていくのですが、この黄帝の姓が姫(き)と言われ、出身が黄河の中流の河北省あたりでした。そして、中国の中華思想の考え方として葦原中原(中国または中華)を中心とした漢民族の支配の基礎を作った。この黄帝の民族こそが、青銅器や鉄器の技術などの黄河流域の文化を持った民族だったのです。
 紀元前1,046年に周の武王によって、周王朝が建国され、国姓を姫として葦原中原を支配した。その後、紀元前771年に西戎の侵略によって都を洛邑に移してから、中国では春秋時代が始まり、斉の桓公、秦の穆公、宋の襄公、晋の文公、楚の荘王等の春秋五覇に当初分かれて、中国各地を個々の国として分裂支配が続きます。その中で斉の桓公の姓は姜であり、晋の文公の姓は姫で、その他の秦の穆公、宋の襄公、楚の荘王は別の姓でした。晋の国の民族が黄河流域の文化を受け継いだことになり、斉の国の民族が揚子江流域の文化を。その後、晋は魏、韓、趙等に分かれ戦国時代に突入するのですが、その中で魏と韓の国姓は姫である。春秋戦国時代に姫の国姓を名乗った国として、呉も黄河流域の文化を受け継いだのであろう。
 このように、中国で姓は国姓として、同族を表す名前として使用されていた。この姓の考え方が日本にも伝わったのかも知れないが、日本で姓が姓(かばね)と変化し、大和朝廷の樹立した頃は、朝廷に従う有力氏族に天皇が臣や連等の姓(かばね)を与え、職掌や立場を明確にした。また、戸籍制度の充実を図るため、祖先を同じくする同族集団に氏(うじ)が大和朝廷から与えられるようになり、蘇我氏、葛城氏、巨勢氏、平群氏等その土地に因んだ名前が天皇から与えられたことになる。また、職務に因んだ名前としては物部氏、日下部氏等があり、天皇から直接命名された名前として、藤原氏、源氏、平氏等もあります。
 戸籍制度がいつからあったかは定かでないが、中央集権国家を目だした大和朝廷の基盤として中国から取り入れた律令制の充実を図るため、戸籍制度が出現したのではないでしょうか。戸籍として、日本の最古のものは欽明天皇の時代の540年の戸籍がある。中国の律令制は秦王朝や漢王朝に原型があるとされているが、実際に律令国家として現れてきたのは魏晋南北朝時代(184年~589年)と言われている。すると、日本に戸籍制度の考え方が出てきたのは古墳時代頃なのかな。
2011年11月6日

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