大和朝廷の官僚政治も7回目を向かえ、今回は和歌山に勢力を持っていた紀氏を取り上げます。神武天皇が東征する時、白肩の津(大阪の四条畷辺り)でナガスネビコと戦って、兄のイツセが負傷して、神武天皇の軍は南に下って、紀氏のいる紀の国(和歌山)に逃げて、イツセは男の水門(大阪府泉南市辺り)で死んでしまう。
 紀氏の祖先神は、高天の原に成り立った最初の独り神のひとり、カムムスヒの子孫のアメノミチネで、アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギが高千穂に天孫降臨した時にアメノコヤネやアメニウズメ等の三十二の神のひとりとして、お供したアメノミチネです。そして、神武天皇が白檮原の宮で政治を行なった時に、アメノミチネを紀国造に任命している。その後、アメのミチネの子孫は、アマテラスが天岩戸に隠れられた時にイシコリドメが天香久山から銅を採出して作った八咫鏡(天皇家の三種の神器)に先立って造られた日像鏡(ひがたのかがみ)を神体としている日前神宮と日矛鏡(いぼこのかがみ)を神体としている國懸神宮の神職を勤めることになる。
 日本神話では、紀氏は天皇家と同じ天つ神系の豪族だったようです。しかし、この紀氏も物部氏、中臣氏、大伴氏、久米氏と同様に中国からの渡来人だと想定できます。中国の神話に出てくる神農の子孫は姜の姓(同一民族の証として姓)のを名乗りました。その姜の姓から、州、甫、甘、許、戯、露、斉、紀、怡、向、呂の氏に分かれ、中国の春秋・戦国時代の斉の国王、呂尚(太公望)はこの神農氏の子孫。この中に、紀氏があり、周王朝時代に大臣を務めた甫侯と同じ様に周王朝の官僚を勤めていたのかも知れない。
 渡来系の豪族、紀氏は大和朝廷が政権を持つ前まで、物部氏と同じ様に和歌山の地で、高野山の麓に丹生都比売神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町)も支配し、高野山の麓で取れる辰砂を鉄の製造する能力があった海洋系の豪族で、鉄による財源を基に天皇家にも影響力を与えた豪族だったのかも知れない。
 紀氏が天皇家に同化していった背景として、第八代孝元天皇の子、ヒコフツオシノマコトが、アメノミチネの子孫、ウチマロの子、ヤマシタカゲヒメと結ばれ、タケウチノスクネを生んでいる。このタケウチノスクネの子にキノツヌノスクネ(紀氏角家の祖)が平安時代まで、大和朝廷の官僚として仕えた紀氏の祖先です。この辺りの話になるのですが、タケウチノスクネの子に、蘇我氏、巨勢氏、平群氏、葛城氏、波多氏等に分かれていく。タケウチノスクネ自身が架空の人物ではないかと言われていますし、古事記や日本書紀を編集した時に地方豪族を天皇家の系図に含めてしまったのかも知れません。
 この後、神功皇后時代の三韓征伐を初めとした朝鮮出兵に、蘇我氏、大伴氏、物部氏、葛城氏等と共に、紀小弓、紀崗前、紀大磐等が出兵しています。その後、紀氏は物部氏に付いたり、蘇我氏に付いたりしながら、大和朝廷の中堅官僚として仕事をして、平安時代には文化人として、歌人紀貫之と紀友則を輩出しました。
2011年10月23日

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