天皇を中心にした大和朝廷で、一番知的な豪族と言うと中臣氏ではないでしょうか。日本神話に出てくる天の岩屋で詔を唱え、天孫降臨で高天の原から高千穂にアメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギが降り立った時に一緒に付いてきたアメノコヤネを祖とする豪族です。中臣氏と言えば、藤原氏の祖、大化の改新で中大兄皇子と共に蘇我入鹿を滅ぼした中臣鎌足が浮かぶ人も多いでしょうが。中臣氏は神祇奉斎の一族で、斎部(忌部)氏との勢力争いで勝ち残り、中臣鎌足の次男、不比等が天皇より藤原の姓を頂いたが、嫡流の中臣氏は、格式で言えば太政官より上位に当る神祇官の地位につき、大中臣氏、藤波氏、荒木田氏、吉田氏として伊勢神宮、鹿島神宮等の主要な神社の宮司を務めた。
 日本神話で中臣氏を探ってみると、古事記で最初に高天の原に成り出た独り神、アメノミナカヌシまで遡る。古事記の編集には藤原氏も係わっていたのでしょうから、天皇の関係した神、イザナキとイザナミよりも先に出てきても不思議ではないし、神々の中で天津神を奨励してきた藤原氏としては、関わりのあるアメノミナカヌシを古事記の最初に持って来たのも理解出来ない訳でもない。この神は、天地創造の神で天高の原の中央に座する主宰神です。中国神話、3世紀頃の三国史の呉の『三五歴記』に天地ができる以前の、卵の中身のように混沌とした状態から盤古が出現したと記されている。多分、盤古を参考にしたのだろう。
 神武天皇以降の大和朝廷において、中臣氏には不思議な事にふたつの流れがある。ひとつは、対馬や壱岐を本拠地にし、鹿の肩甲骨で卜占(太占)を職種とする卜部氏と同族の中臣氏です。この中臣氏は占いをする時に、鹿の肩甲骨に甲骨文字を彫って、小さな穴を開け、その穴に熱した青銅器の軸を差し込んで、甲骨の割れ具合で占いをしていた。この手法は中国北部の黄河流域の龍山文化(紀元前3,000年頃~紀元前2,000年頃)の手法ですから、この中臣氏も中国の渡来人となり、占いをする時に、漢字を使うのですから、かなりの知識人だったのでしょう。もうひとつの中臣氏は茨城県鹿嶋市付近の豪族で、大(意富)氏と共にこの地域から取れる鉄鉱石を鉄器の製造に力を入れ、財を成し、鹿島神宮を建立して、タケミカヅチノヲを祭神とし、アメノコヨネを祖神として、藤原氏の基礎を作った渡来人です。このふたつの中臣氏が同一の豪族であったかは定かでない。
2011年1月7日

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