古事記は元明天皇の命により、大和朝廷の中級官僚、朝臣の太安万侶が下級官僚、舎人の稗田阿礼の語り部を音訓漢字で記述した現代写本として残っている最古の歴史書です。この稗田阿礼と言う人物は天武天皇の命により、帝記と旧辞を調べ、また、諸豪族に伝わっている言い伝えを記録した。この記録した出来事を語り部として、誦えたのを太安万侶が記述したのが、古事記です。天武天皇が何故、稗田阿礼に帝記や旧辞を調べさせたのか。それは、律令制度と専制君主制の復旧のためと、推古天皇が手掛けた天皇記の引継ぎの意味も含まれています。天皇記は推古天皇の時代に延焼のため、現代には残っていませんが。古事記は3巻からなり、上巻は神武天皇までの神話、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までを納めています。また、帝記は歴代天皇の生まれ、婚礼、子息、即位、宮殿、死去等の情報を載せてあるだけで、古事記の記事で、神話や即位している天皇の出来事等は、旧辞か諸豪族の言い伝えです。このような古事記についての情報は、歴史をかじっておられる方だとご存知だと思います。
 稗田阿礼と言う人物は、どのような人物であったかについてはまだ解明されていません。女性であったと言う説もあります。この根拠は、稗田阿礼がアメノウズメの子孫で、猿女族に所属し、伊勢神宮の斎司を受け持っていたところから出てきた話です。男性であったと言う説もあります。この根拠は、伊勢神宮にも関わりある中臣氏の分家であったと言うところから出ています。どちらにしろ、中臣氏はアメノコヤネの子孫ですから、稗田阿礼は、天の岩屋にアマテラス大御神がお隠れになった時に、活躍した神々の子孫である事には違いないと思います。だから、古事記の上巻の神々の世界を誦える事が出来たのかも知れません。
 太安万侶については、実代の人物であった事は、考古学的にも実証されています。太安万侶の祖は、古事記では神武天皇の子、カムヤヰミミとなっているが、仮説ですがどうも朝鮮半島から渡って来た渡来人である可能性が強い。それも、丸邇氏と同系の部族出身ではないかと思われるし、ワニの部族の神話に対する考え方が倭において色よく残っているかもしれない。また、太安万侶がワニの部族の出身なので、スサノヲやオホクニヌシ等の出雲に関する神話が採用されている。また、古事記が弥生時代の日本の歴史書になり得ないのは、都合の悪い事が省かれ、天皇家の都合の良いように編集されている事です。この事は、日本書紀でも言えます。古事記よりも日本書紀の方がこのような傾向が鮮明に現れています。中国の魏志倭人伝では、邪馬台国の卑弥呼が出てきますが、記紀には卑弥呼等は出てきません。
 神武天皇が橿原宮で即位した年は、日本書紀によると辛酉の年となっている。この年が日本の皇紀の紀元で、現在では毎年2月11日が建国記念日となっている。この皇紀は、1872(明治5)年に明治政府によって制定され、神武天皇が即位した年、紀元前660年を1年とした暦です。神武天皇が即位した年を紀元前660年に設定したのは、日本書紀の歴代天皇の即位期間を計算した結果である。また、神武天皇が即位した辛酉の年を紀元前660年とした説は、明治時代の歴史学者、那珂通世で、1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉の年が大革命の年と説いた。神武天皇の即位の年から1260年後は、推古天皇が飛鳥に宮をおいた601(推古天皇9)年に当る。
 古事記が誕生した712(和銅5)年当時では、神武天皇が即位した時代を遠い昔と言う感覚であったのだろう。それが、明治以降の研究で紀元前660年頃と設定したのでしょう。現在では、神武天皇が即位した年が紀元前660年と考えている人は少ないかも知れません。しかし、神武天皇が即位した年がどうであれ、紀元前660年頃と言うと、弥生時代前期の頃で、水田による稲作が日本に入って来た時代である。また、中国史において周が紀元前770年に都を洛邑(成周)へ移して、春秋戦国時代に突入してから100年程たった時代であり、この頃から、中国大陸や朝鮮半島から渡来してくる民族があった事は事実である。
2010年12月8日

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