中国に仏教が伝わったのは紀元前後の時代で、カシミール地方からチベット地方に大乗仏教の般若経と涅槃経、法華経が伝わった。チベット地方で根付いたのが般若経系の大日経や金剛経でチベット密教(ラマ教)として発展していく。日本では、空海が開いた真言宗が大日如来を本尊にした密教。
 大乗仏教は、チベットから中央アジアに。敦煌の遺跡に仏像があるのも、紀元前2世紀頃に中央アジアを支配していた匈奴が敦煌を攻め、イラン系の月氏を滅ぼし、西域を支配下に置いた。それから、鮮卑系の秦の始皇帝が西域を攻めたりしたが、前漢が紀元前1世紀頃、敦煌郡を置き、西域の文化が中国に伝わるようになった。この様な歴史環境の中で、大乗仏教は、紀元1世紀頃にイラン系の月氏や匈奴や鮮卑によって西域特に敦煌に伝わり、般若経の菩薩像や如来像、釈迦仏を崇拝する涅槃経の初期の阿含経等が伝わった。
 中国が後漢を経て、魏晋南北朝時代(三国時代、五胡十六国時代、南北朝時代)に、後漢が敦煌にあったサンスクリット語等で書かれた経典を持ち出し、漢語に翻訳し、紀元2世紀から6世紀までの間に、匈奴や鮮卑系の民族で仏教が広がってきて、中国の北朝(魏や斉や梁等)に伝わった。その当時、中国では、儒教がすでに進透していたが。
 日本に仏教が伝わったのが、欽明天皇の時代。朝鮮半島では、高句麗が南下政策を取り、百済は大和朝廷に仏教の経典と中国の高僧を献納して、任那の四県を譲渡して欲しいと使者を送って来た。その時の権力者、大伴金持が百済の要求を呑んだ。しかし、任那の情勢は良くならず、大伴金持は失脚し、新羅が任那に出兵した。任那の加羅から日本に遠征を要求して来たので、大和朝廷は近江毛野臣を派遣したが、北九州の磐井の一族が新羅と手を組んで、近江毛野臣を朝鮮出兵させなかった。そこで、物部麁鹿火が北九州に派遣され、磐井の一族を討つ。磐井の反乱である。この様な時代に、仏教が日本に伝来したのです。
 日本に仏教が伝来した当時、宮中では崇仏派が葛城系の蘇我稲目で、排仏派が物部尾輿であり、その後、蘇我馬子と物部守屋に受け継がれていく。排仏派として、中臣勝海が上げられる。中臣氏は、神武天皇以来、新嘗祭等の行事を指揮し、伊勢神宮の祭事にも関係が深い氏族である。また、天武天皇時代に天つ神と国つ神の考え方を導入し、神々を振り分けたりした氏族です。ですから、中臣氏が排仏派であることは分かりますが、物部氏が排仏派で、蘇我氏が崇仏派なのか。その当時の権力争いで話を終えればよいのですが。
 ここからは私の所感になるのですが、蘇我氏は第8代孝元天皇の子比古布都押之信の子武内宿禰の子蘇我石川宿禰が祖となっている。また、葛城氏も武内宿禰の子葛城襲津彦や平群氏や巨勢氏も同じく武内宿禰を祖としている。これらの氏族は、奈良県葛城地方に住んでいたことから葛城系の氏族である。葛城氏や平群氏が没落した後、蘇我氏は葛城系の氏族の代表となった。また、葛城系の氏族は、朝鮮半島に関係が深く、葛城襲津彦は神功皇后の時代に朝鮮半島に遠征した人物だし、蘇我氏は宮中で渡来系の職業奴属民を纏めていた氏族。この葛城系の氏族は、やはり台湾より南の島々や中国の揚子江下流から黒潮に流されて、朝鮮半島に辿り着き、山戸の国を作り、朝鮮半島から倭の国に渡来した民族ではないか。南方系文化圏の民族だと思う。物部氏は、ニギハヤヒを祖先神と仰ぎ、中国の吉林省付近のツングース系の扶余族のワイ族であることから、北方系文化圏の民族である。仏教伝来に於ける物部氏と蘇我氏の争いは、北方系文化圏と南方系文化圏の最後の争いではなかっただろうか。

2010年5月22日



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