日本の天皇は中国から来た部族と言う説には肯定も否定もしませんが、日本人のルーツを考えるとやはり、縄文人となります。縄文時代の草創期は、今から約16,000年~12,000年前の頃です。日本列島が大陸と陸続きの頃で、最後の氷河期が終わって、日本の気候が温暖化に進み、地盤が約100kmも徐々に下がっていった時代です。その当時の日本人は、マンモス象等の巨大動物を追いかけて、猟をしていたため、定住をせず、北は北海道から南は沖縄まで、移動して生活をしていた。この当時は、国境もなく、中国大陸から日本へ来たり、日本から中国大陸に移動したりしていたのでしょう。では、中国大陸のどの辺りから日本にやって来たのかとなると、はっきり分からないのですが、以前、いにしえララバイのブログで「古代日本人が、日本に定住した時期について」の記事を投稿しましたように、縄文時代の早期(約12,000年~7,000年)頃には、縄文人は半定住から、竪穴式住居を構えて、狩猟と農作をするようになり、定住を始めた。この定住した縄文人が話した言語が、アルタイ諸語族のツングース諸語系日本語(琉球語、アイヌ語も同系統)でした。日本人は、中国の漢民族でもなければ、朝鮮民族でもないのです。アルタイ諸族と言えば、トルコ系から、モンゴル系、朝鮮系と中央アジア系、西域系民族です。しかし、日本語はアルタイ諸語族のツングース諸語系に属していますが、母音の強い音韻体系がオーストロネシア語族と類似しているとも言われている。
 日本人の男性のY染色体を調べてみると、D2系統とO2b系統を中心としている事が判明している。その中で、D系統は、Y染色体では比較的古い系統で、現在、D系統はD1、D3系統が多いチベット人とD2系統が多いアイヌ人、日本人、琉球人にだけしか残っていない。また、D系統はアジア人種よりも地中海沿岸や中東のアラブ系人種のE系統に近い。このように遺伝子から、日本人の起源は約50,000年前に地中海沿岸からやって来た事になる。
 縄文人は、縄文時代前期(約7,000年~5,500年前)頃に東日本から定住が始まり、中期(約5,500年~約4,500年前)には東日本で大集落が出現している。この縄文時代前期、中期に中国では、黄河文明の仰韶文化(7,000年~5,000年前)から龍山文化(6,800年~4,000年前)が、長江文明の河姆渡文化(7,000年~5,400年前)から良渚文化(5,200年~3,800年前)が、遼河文明の興隆窪文化(8,200年~7,400年前)から花山文化(5,400年~4,300年前)が出現している。この頃には、日本の縄文文化と中国の文化の接点は見出せない。
 縄文時代後期(約4,500年~3,300年前)から晩期(約3,300年~2,800年前)頃になると中部山岳部の定住は少なくなり、西日本の定住が増加してくる。この頃に水田による稲作が中国大陸から渡って来るようになり、弥生時代早期(約3,000年~2,800年前)、前期(約2,800年~2,400年前)には水田による稲作と共に中国の民族が渡って来て、中国の文化(青銅器、養蚕、ヒスイの玉器等)を伝えた。そして、弥生時代中期(約2,400年~1,900年前)に中国の文化(鉄器、陶器等)が朝鮮半島経由で渡ってくるのです。
 このように、縄文から弥生時代に掛けて日本の文化或いは日本神話を考えると、縄文時代晩期から弥生時代早期に掛けて、水田による稲作が中国から入ってきて、弥生時代中期には鉄器が入ってきて、現在の日本の文化や日本神話が形成された事になるのではないでしょうか。
2010年12月30日

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