戦前までの任那に対する認識は、紀元前3世紀頃の弁韓=任那。そして、任那は倭国(日本)の領土。『日本書紀』に記載されているように、任那日本府が存在した。神武天皇が橿原の地で即位したのが、紀元前600 年頃だと信じられていた時代だから、任那はヤマト王権の領土だと信じられていました。しかし、現在では任那の地域には小国が沢山あり、その連合会議みたいなのがあり、新羅の侵略に対抗していた。その軍事的援助をヤマト王権が行っていたとされる。最近の文部科学省の歴史認識は、「倭国には任那の恒常的統治機構がなかった」としている。また、2002年に新しい歴史教科書をつくる会による歴史教科書の「倭(日本)は加羅(任那)を根拠地として百済をたすけ、高句麗に対抗」との記述に対する検定で認可しなかった。
 韓国では、日本が任那を支配していた事について否定している。北朝鮮の歴史学者、金錫亨が1960年代に発表した『分国論』では、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)三国(高句麗・百済・新羅)の分国が日本列島に存在していた。そして、日本古代の文化のルーツは朝鮮にあると論じた。確かに、任那の地域から日本に渡ってきて、ヤマト王権の管理下で集落を形成していたのは事実。でも、日本国内で三韓・三国洛東江下流の分国があったとは、ちょっと言い過ぎではないだろうか。朝鮮半島南部の洛東江下流地域に、紀元前400年頃から中国の長江から伝えられたとする稲作が始まり、無文土器をしようした住民が住み着いた。九州・佐賀県の吉野ヶ里の無文土器と同じ。そこで集落を形成した人達は、稲作の技術を持った日本に住み着いた人達と同じだったかも知れませんね。ただ、揚子江から舟に乗って、北部九州とか洛東江下流地域に。或いは揚子江から北上して、山東半島や遼東半島から朝鮮半島を南下。それとも、北部九州から壱岐、対馬経由で洛東江下流地域に。任那の人達は、日本人(弥生人)と密接な関係があったのは事実です。
 大加羅紀元前後には、洛東江下流地域と北部九州の人達で交流が盛んに、そして、鉄器の生産技術もその洛東江下流地域から。特に、紀元前2世紀後半の鋳造鉄器の製造跡が発見された莱城遺跡をはじめとして、三韓時代には楽民洞貝塚・城山貝塚・固城貝塚でも鉄の鍛冶工房が発見された。倭人は、この地域に早くから目を付け、鉄器の原料、鉄鉱石を洛東江の支流(密陽江)の上流、沙村遺跡当りから採取していた。倭人が鉄を求めて、最初に上陸したのは、紀元前4、3世紀に入り従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始める金官国(現代の慶尚南道金海市)、後に狗邪韓国、駕洛国とも言われている。この地が後の任那となり、地域に繋がる倭人が進出した結果と見られる。
 ヤマト王権は、鉄器の生産に任那の地がどうしても必要であった。ヤマト王権が畿内を政権下に置き、北部九州に勢力を伸ばしていた景行天皇・ヤマトタケルの時代、さらに仲哀天皇・神功皇后の時代、4世紀後半には、金官国を拠点に安羅、多羅、大伽耶を掌握し、伽耶連合(任那の小国家連合)に軍事援助を行った。新羅の領土内(現在の慶尚北道慶州市)にも隍城洞遺跡、鶏林南便遺跡、瓦村遺跡のように鉄の鍛冶工房があって、鉄鉱石が採れる密陽江の上流の支配権が欲しかった。そこで、ヤマト任那の遍歴王権軍と新羅軍との衝突が起こった。神功皇后の三韓征伐ですね。さらに、南下してきた高句麗も任那の鉄鉱石が欲しかった。倭人と高句麗が戦っています。そのことは、広開土王碑文にも書かれている。倭の五王時代になった400年頃には、中国の南朝に使者を送り、任那の領土権を認めさせようとした。『宋書倭国伝』によると、451年に、宋朝の文帝は、倭王済(允恭天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたという。また、478年に、宋朝の順帝は、倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」の号を授けたという。このように、ヤマト王権では、任那・加羅を軍事基点としていたことがわかる。
 武烈天皇の時代までは、北部九州の弥生人が任那でも生活していたのは韓国の前方後円墳事実。それが継体天皇の時代になって、高句麗が南下し、百済の領地が縮小。神功皇后が三韓征伐を行い、その時に手に入れた朝鮮半島西南部、任那4県にあたる。応神天皇以来の領土を百済に譲渡する。512年のことです。応神天皇以来、朝鮮半島西南部に多くの前方後円墳を築き、倭人の大王が存在していた地域を失うのです。さらに、新羅が南加羅・喙己呑に進軍して領土を奪われた。そこで領土の回復のため、近江毛野軍、6万人が出陣した。だが、筑紫国造で新羅に内通していた磐井氏阻止して内乱が起こった。磐井の乱です。ヤマト王権は、物部麁鹿火を派遣して、528年11月に磐井の乱を終結させた。
 継体天皇の時代に、任那4県が百済の領土になった関係で、朝鮮半島西南部にいた倭人は、ヤマト王権が指示する土地に移住。継体天皇自身も507年に樟葉宮で即位し、511年に筒城宮、518年に弟国宮、526年に磐余玉穂宮と転々と宮殿を移動させている。移転した都には、任那から移り住む倭人を吸収した。継体天皇の後、安閑天皇が4年間。この間に各地に41件もの屯倉を設置している。そして、その屯倉を守衛する役人、犬養部をおいた。その犬養部は、海犬養連、若犬養連、阿曇犬養連、辛犬養連が海神族系、阿多御手犬養は隼人系、県犬養連が山祇族系。とあるが、たぶん、任那からの移住者だったと思う。安閑天皇の次が宣化天皇、そして欽明天皇。この頃になると、任那では新羅の攻撃が続き、頻繁に任那に兵を送っている。欽明天皇は、522年に百済の聖明王より仏教を教わる。仏教公伝ですね。欽明天皇と聖明王は、541年に任那の復興について協議していたが、戦況は百済側に不利であり、552年には平壌と漢城を放棄、さらに554年に新羅との戦で、聖明王が亡くなると新羅軍は勢いづき、562年に任那を滅ぼしてしまう。これに激怒した欽明天皇は、562年に新羅に対して討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却した。これで、任那は完全に朝鮮半島から姿を消えてしまった。


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