津波と地震

日本列島の活断層 地震がどの地域でいつ頃起こるか、全く予想できません。日本は火山地帯でもあり、火山噴火による地震。その他にも、日本列島の活断層による地震の結果、砂を大量に含んだ地下水(砂派)が地上に噴き出す液状化現象により山崩れや新たな丘に。海では大陸棚で津波瘤のように盛り上がる液状化現象により津波が起きる。この結果、海から運ばれた砂によって今までの海岸線が変化する。このように、地盤変動により生活環境が一変する。住居は崩壊し、農作物が栽培出来なり、船着場状況も変化する。被災地では、住居崩壊により避難場所での生活を余儀なくされる。

縄文時代の大地震 現在では、保険により住居の建て直しや被災地を逃れての移転で、新たな生活が始まりますが、縄文人の時代には、地震により多数の死者が出て、さらに生活のため狩りをしようとも地震により獲物も減少し、栗やドングリの木も倒れて、その地では生活出来ない状況により、集落の移動をしなければならなくなる。縄文時代中期に東北地方で大規模な集落を営んでいた三内丸山遺跡でも同じように地震に襲われている。三内丸山文化が栄えたのは、5,900年前から4,200年前頃まで。終焉は、やはり地震だった。三内丸山遺跡の北側に活断層が通っていて、それが4,800年前と4,300年前頃に地震を起こしている。その結果、この三内丸山地区での人口が減少して、他の地域に移動していった。

鬼界アカホヤ鬼界アカホヤ火山灰跡 このように、縄文人が集落を築き、そこで集団生活を営んでいてもやはり地震や災害でその集落も終焉を迎えていた。石器時代から東アジアの島々を渡ってきた縄文人は、九州に上陸して、集落を築いて縄文時代早期(15,000年前から7,000年前まで)には、小林修三先生の縄文人口シミュレーションによると九州では1,900人となっていた。それが、7,300年前に鬼界アカホヤ火山噴火により、西日本全体に火山灰が投下され、生活環境が悪化し東日本人口と人口密度では縄文時代前期(7,000年前から5,500年前まで)に人口増加による繁栄時期を迎えるも、東北では2,000人から19,200人に増加したのに対して、九州では西日本では5,600人に留まった。縄文時代中期5,500年前から4,400年前まで)には、東北・関東・東海・中部・北陸と順調に人口を増やしていった。全国総合計が261,300人中、この4地域で251,800人を占めていた。特に多いのは関東と中部であった。縄文時代後期(4,400年前から3,200年前まで)になると中期に比べて気象変化の影響もありましたが、東日本で地震が多発し、東日本の人口が東北を除いて、減少に転じた。西日本は鬼界アカホヤ火山灰の影響から脱皮して増加に転じていた。縄文時代晩期(3,200年前から2,400年まで)になると富士山周辺の活断層が活発化して、3回程の大地震が起こり、関東では縄文時代後期に51,600人の人口があったのに、縄文時代晩期には7,700人と減少してしまった。東北だけは減少率がすくなかったが、他の中部・東海・北陸も減少率が高かった。おまけに西日本で近畿では大きな地震が京都・大阪を中心に多発して、ここでも4,400人から2,100人と半減した。全体として縄文時代晩期の縄文人は、75,800人と減少してしまった。

 縄文人は、北海道から東北に掛けて、日本に上陸した人達が中心になって、縄文文化を築き上げてきた。東アジアから島つたいにやって来た縄文人も存在していたが、多くは東北地方から関東や中部にやって来た人達です、それが地震により人口を減すアクシデントもあったものの、地震や台風や川の氾濫などを乗り越えて現代の日本人の祖先となった。



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