太古の時代、稲作が浸透していく過程で、生活や経済基盤として血縁関係にある一族の集団が形成されていった。水田の土地や水路の確保が集団規模を決定し、各集団での争いや婚姻関係により、大きな集落が九州を中心に中国・四国地方、更に近畿地方へと広がっていった。これが紀元前900年から紀元前500年頃の出来事です。稲作の進展と共に集落の拡大が始まった。
 集落での結束を図るために、自然崇拝の信仰(例えば岩、太陽、山など)が行われ、そこにその集団独自の神が存在していく。集落の真ん中にはその神を祀る祭壇が設けられた。その祭壇は、大きな岩を設置したり、木材を立てたり。そこで、イネの収穫の豊作を願い、川の氾濫などの災害からのがれるための祈祷などが行われた。
 紀元前500年頃から、稲作の発展により人口が増加。同じ神を信仰する集団の分割が始まる。そして、ある程度の地域に集落が拡散。それでも、同じ神を信じる同士の信頼関係があり、その規模が大きくなって小国が形成されていく。そこには血縁関係の正統性などから、その各集落を取りまとめるリーダーが出現。各地に大王が出現。これが紀元前200年頃。この頃に人口が倍に増えています。小国の出現は、九州だけではなかった。
紀元前後の人口推計
 紀元前200年頃から、鉄器や土木技術を持った渡来人が中国大陸や朝鮮半島から九州へ。青銅の鏡や銅鐸の生産が始まり、集落の祭壇に飾られるようになった。人口の増加に伴い、小国間で土地や水争いが始まる。また、中国から神仙思想が入ってきます。不老不死の仙人が棲むというユートピア、太陽が毎朝若々しく再生してくるという生命の樹を求めて、東へ。ある集団は九州から畿内に移動。これが西暦100年から200年頃。畿内には異なった神を崇拝する集団が集落を。その集落には、従来からその地で生活していた人達と先進な頭脳を持った人達の集団生活が始まる。
古代の階級 畿内での集団生活から、住民に格差が生じ始め、先祖から崇拝してきた神(氏神)に近い血縁関係のあるリーダーが氏上となり、その親族が氏人、鉄器や土木技術などを持った部民、そして使用人としての奴に分かれていった。畿内に移動した中に天皇家も含まれ、ヤマト王権の基礎が築かれた。また、その畿内の集落には、氏神を祀る神社が建てられ、本殿には剣や鏡が信仰の対象物として設置された。これが西暦300年頃で、古墳が出現し始めた頃。畿内は、このような状況ではあるが九州や中国地方では、その地に留まった一族もあり、小国の大王として存在していた。
 西暦300年頃から、権力の象徴として古墳が築造されていきます。氏族の長の墓として。現在でいう宅地の開発で山を切り開いたりするわけですが、この古墳時代も田園地の開発や水路の構築のため、氏上の命で土木工事を行い、土を盛り古墳にし、余った土で埴輪を焼き、周辺の氏族に権威を表した。その傾向が大和や河内に普及、さらに吉備や筑紫に普及していった。それも急速に。さらには朝鮮半島の任那まで。
古墳出現期
 権力の象徴として早い段階で古墳を築造したヤマト王権は、西日本の制定と東日本の開拓を始める。各地の大王や氏上に姓(カバネ)として連(むらじ)という位を与えた。この位は、氏神を祀っている大集落に与えられ、そこに氏族の名前が付けられた。たとえば、大阪の茨木市太田地域の連には、太田中臣連。東大阪市にある枚岡神社辺りの連には、平岡中臣連。交野市の私市にあるニギハヤヒが天孫臨降したといわれる磐船神社辺りの連には、肩野物部連。
氏姓制度
 このように古墳時代には、氏族の台頭とともにヤマト王権は、氏族に連という地位を与え、政権を維持しようとした。ニギハヤヒ(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)を氏神としていた集団には物部という氏族の名前を与え、その中に物部尾輿や守屋親子がいた。また、中臣連の氏神はアメノコヤネで、その中臣連に中臣鎌子がいた。仏教が百済から入ってきたときに、崇仏派の蘇我稲目と戦った物部尾輿や中臣鎌子は、氏神を重要視する排仏派だったのですね。これは欽明天皇の時代で、西暦500年代のことですね。
崇仏派と排仏派
 古墳時代初期には、豪族という存在がまだ少なかった。それが、ヤマト王権が全国の小国を征圧して、姓という地位を与え、それに氏族の名前を与えたか、或いは以前から名乗っていたか。その集落全員が同じ名前、氏族名を名乗るようになった。

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