倭国大乱の時代、2世紀から3世紀頃、日本では「倭国」とか「ヤマト王権」と言った統一国家ではなく、縄文時代からの集落の延長線上にある小さな国が存在していた。その小国には、稲作を中心にした人達や多少の土器、青銅器、鉄器などを製作する工房があり、そこで作業する人達が共同生活をしていた。生活の源である稲の発育において、天候不順からの凶作になら内容に祈りを捧げる巫女がいて、「日女」と書いて「ヒミ→ヒメ」と呼んでいた。その当時、まだ日本には日本語の漢字が存在せず、中国から入ってきた漢字を当てはめているので、時代によって或いはそれらの小国の集団によって「ヒメ」は、(比売、比咩、日女、孫女、火売)と書かれていた。「ヒミ」は(比彌)。この「ヒミ」は、邪馬台国の卑弥呼の「卑弥」に当り、「姫子(ひみこ→ひめこ)」を表している。となると、『魏志倭人伝』に書かれている「卑弥呼」は個人名ではなく、一種のカバネ? 「姫」や「媛」が使われるようになったのは、『日本書紀』が編纂されてから。
 縄文時代には平和な集落で、巫女を中心にした集団社会であった。それが、中国や朝鮮半島との交流が盛んになった九州、紀元前後の時代には、大陸との往来が盛んになり、日本への移民も増えてきた。そして、平和な従来の集落は大集落から小国へと。そうなると、食料の確保、水田の拡大や水路の維持など領土が問題になってくる。そうすると、隣国との戦争に。小国には、戦いを指示する男性が必要になってきて、今までの女王的存在だった「ヒメ」が首長としての「ヒコ」に。『魏志倭人伝』によると、対馬国や壱岐国には首長として、「ヒコ」が存在していた。その『魏志倭人伝』では、その「ヒコ」を「卑狗」と書かれている。また、「日女」に対して「日子」、「比売」に対して「比古」、その他に彦、孫、日古などが「ヒコ」の漢字に当てはめられている。この「ヒコ」の他に、首長を表す言葉として、「ミミ(耳、彌彌、美美)或いはミ(彌、見、美、海、看)」と「ネ(根、禰、尼)」があります。
 「ミ」は霊を表し、日本神話で「ワタツミ(海の霊)」た「ヤマツミ(山の霊)」の「ミ」ですね。『魏志倭人伝』は3世紀の投馬国の首長に「彌彌(ミミ)」および「彌彌那利(ミミナリ)」がいたことを記している。この「ミ或いはミミ」は、神霊的な人物に使用され、神武天皇の子、タギシミミ、カムヤイミミ、カムヌナカワミミと記紀に書かれている。このことは、天皇家が神霊的な存在であり、大王の継承者を意味しているのだろう。天皇家だけでなく、賀茂氏の祖先オオカモツミ、久米氏のウマシミミ、吉備氏のミスキトモミミ、紀氏のトヨミミなど、ヤマト王権の豪族の祖先も首長として「ミ或いはミミ」が付いている。それにしても、3世紀までの日本は、まだヤマト王権化ではなく、首長(女王)が女性である小国もあり、豊国のウサツヒコとウサツヒメのように「ヒコ」と「ヒメ」体制のところもあり、まだ小国だったヤマト王権では、兄弟体制、結局は末っ子のカムヌナカワミミが第二代綏靖天皇になる。この頃はヤマト王権が日本を支配していない時代でした。
稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣 「ネ」は、3世紀から4世紀に政治的・英雄的首長に付けられる名称であり、応神・仁徳天皇期以前に限られ、古くは「タリネ(垂根)」、「イリネ(入根)」、「タラシネ(帯根)」、「ヤネ(屋根、八根、矢根)」、「トネ(刀禰、戸根、等禰)」等、さまざまな「ネ」があった。ヤマト王権の初期、崇神天皇の時代、4世紀になってもこの「ネ」を使用していた。物部の「トチネ(物部十千根)」、中臣の「アマノコヤネ(天児屋根命)」、穂積の「タケオシヤマタリネ(建忍山垂根)」。「ネ」と言えば、スクネ(宿禰、足尼、足禰、少名、宿儺)があり、武内宿禰が有名ですが、この宿禰は官位を表し、崇神天皇の時代から現れた国造に任命された人物に○○スクネと官位を与えていた。たとえば、甲斐国造に塩海足尼、穂国造に菟上足尼 、淡道国造に矢口足尼など。その人物のほとんどが首長で、軍事的長の称号でした。軍事的部族としての物部に「オオネ(大根、大禰、大尼」と付き、明治時代から終戦までの日本軍隊で最高司令部責任者に「大将」という職位を与えたのと同じ。この大将を補助するのが「少将」。「オオネ(大根)」を補助する意味で「スクネ(少根)」。行政官とでも言えるかもしれないが、その行政官に武内宿禰の子となっている葛城、波多、平群、紀、巨勢、蘇我の部族が就任した。
 崇神天皇の時代になって、ヤマト王権初期が始まると地方の首長に使われていた「ヒコ」は、皇室に近い、身分の高い男性にもこのカバネ「ヒコ」を与えるようになった。第8代孝元天皇の第1皇子で、第11代垂仁天皇の外祖父である大彦命も「大」「彦」が付けられた例です。垂仁・景行天皇の時代に、ヤマト王権の権威を高めるため、または王権との関係や地位を明確にするため、各地で使われていた首長(ヒコ、ミ、ネなど)の称号整理が行われ、国造、県主という地域の長官の役目を与える称号を設け、その国造に就任する地位として「ワケ(和気、別)」、県主(郡)に就任する地位として「イナギ(稲置)」などが定められた。「ワケ」は初め皇族の子孫、とりわけ軍事的指導者で、地方の領地を得た者に付けられた称号。それが、成務・仲哀天皇の時代には、皇子に分け与える領地がなくなったため、「ワケ」の称号をつけられた皇子はほとんど見られなくなった。また、景行天皇はオシロワケ(大足彦忍代別)、応神天皇はホムダワケ(誉田別、凡牟都和希)、履中天皇はイザホワケ(大兄去来穂別、大江之伊邪本和気)、反正天皇はミズハワケ(多遅比瑞歯別)とワケの称号にもっている。このことは、皇室に生まれ、領地を分け与えた皇子に付けられた「ワケ」ではあり、本来、天皇になれないはずが、何かの理由で天皇になった。そして、允恭天皇の時代、5世紀の中程に、領地を求めて、皇族を名乗る者も現れたりしたので、氏姓制度の改革を断行。領地を分ける意味合いがあった「ワケ」の称号は、「キミ(君、公、王)」や「オミ(臣)」に。この允恭天皇が、後の大連・大臣体制の基礎を築いた。


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