大湯環状列石 ウッドサークルを取り上げる前に、サークルの起源、ストーンサークルを。日本でも、最初に発見された北海道小樽の忍路環状列石、それに続くように東北秋田の大湯環状列石が有名で、おおよそ縄文時代中期後半から後期、紀元前2,000年~紀元前1,000年の間頃に作られている。環状列石をサークルと言っているわけですが、直径5m~10mの範囲で円形に石が並んでいる。その内側では、縄文人が祭壇を設置し、薪をして神に祈りを捧げた祭事の場だったのでアファナシェヴォ文化の領域す。このストーンサークルの発祥の地は、紀元前3,500年から紀元前2,500年頃に中央アジア北東部からシベリア南部にかけての半遊牧・牧畜民、コーカソイドが築いたアファナシェヴォ文化だと言われています。その後、シベリア南部はモンゴロイドのオクネフ文化がストーンサークルを引き継いだ。これが紀元前2,000年頃です。オクネフ文化を築いたのも牧畜や漁労民だった。北海道、東北に現れたストーンサークルは、狩猟と漁労を中心にした民だったのでしょうか。
 円形内部で祭事を行う習慣はストーンサークルから始まったが、狩りや魚の収穫で生計を立てていた。その後、寒冷期が過ぎて暖かくなり、東北の縄文人は、気候の変化により亜寒帯性の針葉樹林からブナやナラなどの落葉広葉樹林が茂るようになり、ドングリやクリの採取をはじめた。そして、栽培も手がけ、狩猟が減少した分、その栽培で補った。この頃が縄文時代中期。紀元前2,000年頃。西日本、特に琵琶湖周辺、中部の諏訪湖周辺では、大集落が出現し、堅果類のアクを取って貯蔵、煮たりするのに土器が必要となった。土器だけでなく、土偶の生産も始まり、祭事で使われる土偶だけでなく、土面も制作された。このような近畿圏のクリなどの採集は、東北では、縄文時代後期、紀元前1,500年頃に広がった。サークルも石から木材、特にクリ材が使用されるようになった。サークルがクリ材を使ったウッドサークルに変化して、北陸の石川、富山、新潟などでは、水田の稲作が始まる紀元前500年ごろまで続いた。
真脇遺跡のウッドサークル 水田による稲作は、北部九州で紀元前900年頃から始まり、近畿の播磨地方には300年を経過して伝わった。それから100年後、紀元前500年頃に河内、大和、近江と伝わった。このことは、近畿の遺跡から水田式稲作を採用した北部九州の土器、遠賀川系土器と突帯文系土器の発掘状況である程度年代を探ることができる。近畿より西側は、シイなどの照葉樹林が広がっていて、稲が育つ環境が出来ていた。その当時でも、北陸、中部、関東、東北では、ブナやナラなどの落葉広葉樹林が広がっていて、ドングリやクリなどの堅果類が主食で、育てたクリ材を伐採して、ウッドサークルで祭事を行っていた。東北に水田式稲作の波が届くのは、近畿から遅れること400年で、紀元前100年代になってから。サークルで行われる祭事に使用される土偶も日本最古の土偶が三重の粥見井尻遺跡から出土した土偶、紀元前11,000年前後の土偶は別としても、紀元前4,000年頃の諏訪湖辺りで作られた土偶が一般的には有名ですが、東北の土偶は縄文時代の晩期になってから。サークルで祭事を行ったのは東北から全国に広がりましたが、サークルの考え方が水田式稲作を取り入れた北部九州では、灌漑にも関係があるかも知れないですが、集落の周りに柵や堀が設置された。ウッドサークルの形式が掘立柱建物に応用され、集落の貯蔵庫としての巨大倉庫が出現した。
秋田県山本郡二ツ井町麻生遺跡の土面 縄文時代は1万年も続いたので、気候の変化や狩猟の減少、水田の広がり、舟を使っての人、物資の交流が時間を十分に使って行われていたようです。それと、西日本と東日本との違いもハッキリと現れています。西日本の気候は、中国から流れてくる偏西風によって、春夏秋冬の季節が訪れ、稲作に適した常緑広葉樹林であった。東日本は、シベリアからの寒気によって、雪が積もり農作業には不向きであった。しかし、クリやドングリの堅果類はたくさん採れる落葉広葉樹林帯だったのです。寒く長い冬を備蓄したドングリやクリで過ごし、竪穴住居で時間がたっぷりあったのでしょう。そんな時間を使って、縄文土器の制作も凝ったものになったと思います。土器だけでなく、土偶は全国的に見られますが、東日本でしか見られない土面や凝った仮面も発掘されています。
 現在でも、東日本と西日本、関東と関西と区別され、国民性の違いも囁かれていたりしていますが、縄文時代からそんな感覚があったのでしょうか。


にほんブログ村テーマ 原始ブログ集まれ。へ
原始ブログ集まれ。

PVアクセスランキング にほんブログ村

隠された古代史を探索する会
 隠された古代史を探索する会
隠された古代史を探索する会の会員登録