昔から日本列島は山があり、山の地下水が川となり、海へ流れ、列島の周りは海に囲まれた自然豊かな国土です。そして、南北に細長く伸びているので植物や木々も豊富。そのような国土では、山や野原ではシカやウサギのような小動物が繁殖し、海では黒潮や親潮という海流によって南からマグロやカツオ、北からは鮭やサンマなど豊富な魚が。浜辺では貝類や海藻が採れる自然環境にある。そのような環境化で日本人の祖先、縄文人は1万5,000年前から日本列島で生活を行ってきた。
最後の氷河期が終わり、日本列島も暖かくなってきて、獲物を求めて食肉を中心にした生活が始まり、鋭い刃物(石器)を求め、火山岩の黒曜石の山地には縄文人が結集するようになった。北海道の白滝遺跡群が縄文時代早期の代表的な集落で、縄文人は獲物を求めて南下していった。そして、栃木県高原山周辺や長野県霧ヶ峰周辺の黒曜石産地まで辿り着いた。この縄文人は山の民です。一方、南の端の九州でも縄文時代草創期のころから、佐賀県伊万里市腰岳の黒曜石が海を渡って朝鮮半島に。大分県姫島の黒曜石は中国地方や四国地方に瀬戸内海を通って持ち出された。島根県隠岐の島でも黒曜石が採れて、ロシアのウラジオストクまで運ばれた。これらの縄文人は海の民です。
縄文人が食料や黒曜石を求めて移動していった経路は、土器の特徴によってある程度判断できます。今から1万3,000年前の土器として、九州の長崎県佐世保市吉井町の福井洞穴から出土した隆起線文土器は、底がラクビーボールのような形で簡素な模様が施された土器でした。この原型が隆起線文土器よりもさらに古い佐世保市にある泉福寺洞窟の隆起線文土器(豆粒文土器)です。この隆起線文土器が関東の神奈川県横浜市都筑区にある縄文時代草創期の花見山遺跡から大量に出土している。北は青森県六ヶ所村で隆起線文土器も縄文時代草創期の土器として発掘されている。北海道と沖縄を除く各地の海岸線にみられる。また、青森県東敦賀郡外ヶ浜町にある大平山元Ⅰ遺跡の模様のない無文土器で、底が平らで角張っている土器も1万6,500年前とされている。この土器の発見が原型を留めていなく、破片の状態であったのが残念ではあるが、底が平らで底から間口まで円形で広がっている深鉢形土器の原型ではないかと言われている。5,000年前に、新潟県にある笹山遺跡や馬高遺跡で発掘された深鉢形土器は、間口の部分が炎のように盛り上がっていることから火焔形土器と言われるようになった。この火焔形土器は、長野県の遺跡からも発掘されている。その土器の原型は、7,500年前の東北地方南部で広がった大木式土器とされ、縄文時代中期には関東地方にも広がっていった。
縄文人の一部は、北海道から始まり、東北地方を経由して獲物を求め、刃物としての黒曜石を採取して、それを宝にして南下していった。その時に用いられた土器は、石を積み重ねた炉で雑木を燃やし、そこに据えられて煮炊きされた。その用途の土器は、獲物を煮炊きするために間口を広くし、地面にも置けるように平らになっていた。その時に使った土器が大木式土器であり、深鉢形土器でした。このような土器を使用したのが山の民です。一方、底が楕円形になっている土器や円錐形に尖っている土器は、海岸線上の貝塚の遺跡に見られ、海に潜って魚介類を採取して、浜辺でこの土器を砂に潜らせ、回りに雑木を置いて点火して、煮炊きする。そんな隆起線文土器を使用したのは海の民でした。竪穴式住居の囲炉裏でもこの深鉢形土器が使われた。山の民と海の民の一番の違いは、丸木舟を使用していたかどうかです。現在で日本の最古の丸太舟は、2013年に千葉県市川市雷下遺跡で発掘された。この丸太舟は7,500年前とされている。また、5,500年前の丸太舟も福井県鳥浜遺跡からも1981年に発掘されている。丸太舟の発掘件数は、125艇ぐらいで時期的には縄文時代後期から晩期が多く、地域的には関東平野、特に千葉県が最も多く、その次に琵琶湖となっている。
水田の稲作が中国から海の民によってもたらされ、それを山の民が吸収していった。その浸透力は早く、3,000年前に九州北部に上陸し、2,700年前までには近畿地方まで浸透し、2,400年前までに東北地方の北端まで。このことは、縄文時代の山の民が海の民を従えて成しとけた。1万年もの歳月で培った縄文人の知恵だと思います。
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